体験談 kanako トップ

【序章】REBORN projectとの出会い

転職と海外挑戦

かなこ 出会い

REBORN projectの「ワーキングホリデー」に出会う前、私はソフトウェアの会社に務めていました。新卒入社してから2年が経つころ、私は変化を求め始めました。入社するとすぐに研修をしてもらい、仕事にも慣れてきたものの、うまくいかないことも多々あり、頑張れば頑張るほど、「私は何のために働いているのだろう?」と考えることが多くなりました。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、就職と、エスカレーターのように人生を歩んできて、そのエスカレーターを上り切ったとき、目標を失ってしまっていたのだと思います。肌がボロボロになるまで必死に勉強して大学に入ったものの、いつの間にか10代のころに思い描いていた「なりたい大人」の像はどこかに消えていました。

自分がどうなりたいのか、何に挑戦したいのかを自由に考えて自由に選べるはずだった就職活動期に周りの勢いに流されて、“あえて“誰も想像もしなかったような業種を選んで就職しました。天邪鬼でした。その結果、「このままこの会社にいたら5年後の私はどうなっているのだろう」と考えたとき、目標もなく、何か自分でスキルを身に着ける気力もなく、新人の特権でお給料はしっかりもらえているものの、このままこの恵まれた環境に甘んじていたら、お給料に見合った仕事ができる大人になれないのではないかと怖くなりました。誰かの役に立っている実感がないまま経済的には安定していくことに違和感があったのです。そして、それがいつまでも続くとも思えず、ただただ、自分の将来に対する不安が大きくなり、「自分がもっと必死になれる環境に追い込まなければ」と思いました。

でも、この会社に勤めていたことは後悔していませんし、むしろ、退職して時間が経った今、「あの時私に仕事の仕方を教えてくれたこと」にとても感謝しています。あの頃受け止めきれず、理解できずに勝手に苦しんでいたことが、今になってようやく理解できたように思えることも多くあります。この経験からも、どんな選択も、どんな経験もしっかり向き合っていれさえすれば無駄になることはなく、自分次第でなんでもポジティブな材料に変えていけるのだと実感しています。

ワーホリという選択肢

さて、変化が欲しいと思った私はまず、転職を考えました。たくさんの転職サイトに登録して、情報を集め、世の中にあふれる求人をガサガサと探りました。でも、そもそも自分自身と向き合えていなかった私には、ピンとくる求人も見つからず、焦る気持ちばかりが大きくなっていきました。そこで私は、「仕事探し」の枠から抜け出し、「自分が好きなこと」を考えました。もともと海外に漠然としたあこがれを持っていた私は、学生時代に叶わなかった海外長期留学を視野に入れて情報を集めるようになりました。

インターネットやソーシャルメディアで検索をしているうちに、「ワーホリ」という選択肢が現れて、資料を取り寄せたり、口コミを見たりしているときに出会ったのがREBORN projectのワーホリです。ソーシャルメディアでぱっと現れた広告を見て、引き寄せられるようにREBORNワーホリの説明会に行きました。説明会の会場で、当時事前準備中だったREBORNワーホリのメンバーさんたちがハツラツと活動している様子を見て圧倒されたことを覚えています。そこにいたメンバーさんたちは皆楽しそうで、笑顔が多く、「私もあの中に入りたい」と思いつつ、少し遠い存在に見えました。同年代の頑張る女子たちへの典型的な嫉妬もあったと思います。説明会で見聞きしたヒロさんの思いがギュッと詰まったプログラムには、かなり惹かれました。成長するための環境に身を置き、自分の力で切り開いていく力がつけられるプログラムだと感じました。

他社のワーホリを使う予定だった

でも、そこで私は即決したわけではなく、もう一社の説明会に行きました。「現地でローカルの仕事が欲しい」「なるべくお金はかけたくない」という思いがあった私は、仕事を用意してくれて、費用もぐっと抑えられる他社のプログラムを使おうと思いかけていました。そんな時にヒロさんに言われた言葉で、私はREBORNワーホリで行こうと覚悟を決めました。「REBORNは帰国後の就職を保証するプログラムではありません。現地でも仕事は用意しません。でも、現地でも帰国してからも活躍できる人材になれる力を鍛えることができるプログラムです。」と。私はハッとしました。恵まれた環境に甘んじて生きるのを辞めて、自分自身に確かな生きる力をつけたかったはずなのに、また誰かが用意してくれる環境に甘えようしていた自分に気が付いたからです。そして「打ちのめされること、自力で這い上がること」を目的にREBRON projectのワーキングホリデーに参加することを決めました。

【第一章】渡航前事前準備講座

英語を使う自信をつける

かなこ 事前準備

事前準備の始まりは、英語レベルの現在地を知るためのアセスメントテストでした。小学4年生の頃から英語の教室に通い、高校時代に分厚い参考書を3回にわたって丸写しし、自分のためだけの参考書をつくり、大学でもアメリカ文学を専攻していた私は、英語は比較的得意科目でした。それでも、REBORNのテストは難しく、判定もとっても厳しかったです。その油断を許さない基準のおかげで「これは甘く見たらいけない」と改めて覚悟を決めてスタートを切ることができました。

自分の現在地を知った後は、渡航までに最低限必要なレベルまで持っていくために、英語の課題は毎回必ず提出し、アセスメントテストも必ず受けていました。学生時代の必死な受験勉強のおかげで、基本的な文法は頭に入っていたし、英語小論文や要約もかなり鍛えたので慣れてはいましたが、それでも課題をこなすのは簡単ではありませんでした。なぜかと言うと、REBORNワーホリの事前準備で勉強するのは、テストで高得点を取るための英語ではなく、「グローバルな環境で活躍する」ために必要な英語だからです。ただ覚えればよいという問題ではありません。ただ何となくやれば努力賞がもらえるわけでもありません。きちんと自分のものにして使えるようにならないといけませんでした。

私自身も、「英語を正しく使えるようになって自信をつけてからワーホリしたい」と思っていました。もちろん、英語を教えてくれるカナ先生は、やったことに対しての努力をきちんと評価してくれます。でも、その努力を無駄にしないためにも自分の言葉のアウトプットのためのツールとして使えるようになるに、「ただやった」だけで満足させてはくれません。見落としがちな穴に気づけるようなアセスメントや課題を用意してくれています。

ワーホリ行くのは簡単、行ったあとを考えて準備する

事前準備 2

また、文法や単語、英語ならではの表現などの再学習を経て、スピーキングの力もかなり上がったと思います。

REBRORNワーホリの事前準備を始めた頃は、スピーキングに根拠のある自信はなく、わからなくても笑ってその場をしのぐようなこともしていました。聞けない、言えない、そんな現実に焦ることもありました。REBORNワーホリでは、実際に使う、話すことを目的にインプットをしているので、アウトプットの練習にもかなり効果的でした。さらに、アウトプットの場も用意してくれているので、その環境を使い倒せば渡航までに十分に自信をつける準備をすることができました。

英語もスポーツと同じで、どれだけルールやテクニックを勉強しても、実際の試合の中でそのインプットしたものを使って表現できなければ、プレイヤーとしては不十分なのと同じで、グローバルなフィールドで活躍したいのならば、インプットした知識を出し切る練習をしないといけないということをREBORNワーホリで改めて教えてもらいました。スポーツの試合とは違い、ワーホリや留学の場合、お金を払って権利を買えば、渡航できてしまいます。ですが、十分な練習をしない選手は自分が思い描くようなプレイはできないのは当然です。日本でできる準備はとことんやってから渡航する。渡航日に向けてコンディションを調整していく。REBORNワーホリの事前準備はその後押しをしてくれました。

英語の勉強だけじゃ足りない、英語以外で何が必要なのかを知る

事前準備 3

REBORNワーホリの事前準備をやって本当に良かったと思うのは、克己心を養うことができたことです。方法を知っていても、それを行動に移し、継続的に努力できる人はそう多くないと私は思っています。私も、自分に甘いし、弱いし、すぐにくじけます。だからこそREBORNワーホリの事前準備が必要でした。

REBORNワーホリの事前準備では、ただ方法を提示するのではなく、自分の足で踏み出せるようなマインドセットを促してくれます。克己心というと、単なる精神論に聞こえてしまうかもしれませんが、世界に出てグローバル人材になろうと思ったら、無理やり「頑張ろう」と自分に言い聞かせても限界があると思います。もちろん、自分を鼓舞し続けることも必要ですが、そうではなくて、「なぜこの知識が必要なのか」「なぜこの問題を考える必要があるのか」ということに自分で気づく力をつけることがとても大切だと私は思っています。環境問題について考えましょう、捕鯨問題について考えましょう、人種の問題について考えましょう、と言われてやってみても、なぜその問題が大事なのかを自分で考えられなければ、ただやらされているだけになってしまい、世界で起きているあらゆる問題の本質にたどり着くことは難しいと思います。私は、事前準備のおかげで無理やりな根性ではなく、内発的に「これが必要だから頑張ろう」と考えられるようになりました。

不安を消すことより、弱さを克服するための準備

事前準備 4

時には不安になることもありました。「私の英語で通用するだろうか」「仕事が見つからなかったらどうしよう」「帰国後に仕事がなかったらどうしよう」と不安で押しつぶされそうになったこともあります。むしろ、常に不安でした。でも、その不安があったからこそ、自分がなぜ会社を辞めてまでワーホリに行こうと思ったのかとういう原点に立ち戻って考えることができましたし、その不安があったからこそ、克己心を養い、努力することができました。

こうして今振り返ってみると、REBORNワーホリの事前準備は、不安を消すためにやったのではなかったのだと思います。不安はあって当然で、むしろその不安に紐づく弱みを浮き彫りにして、その弱みを克服するための準備なのだと思います。不安も感じず「何とかなる」という根拠のない自信だけではどうにもならないので、REBORNワーホリの事前準備で不安になることができてよかったと思っています。

いろんな選択肢があふれていて、どれが正解なのか選んでいるときはわかりませんが、ワーホリや留学という選択も自分の人生の一部です。自分次第で過去の自分の選択を正解にすることができると私は思っています。そのために、私は弱い自分を甘やかさずに自分の足で前に進んでいくことを後押ししてくれるREBORN projectのワーホリを選んだ2年前の自分の選択は正解だったと胸を張って言えます。

【第二章】ホームステイ

オーストラリアのお母さん

ホームステイ先の家族は私のオーストラリアの実家です。到着したその日から本当に家族みたいに接してくれて、1年のワーホリをこんなにも温かい家庭でスタートさせることができて、本当に恵まれていました。

基本的なハウスルールはありましたが、本当に自由にのんびりと過ごさせてくれました。語学学校での出来事や新しくできた友達のこと、仕事探しのこと、たくさん話しました。私が家探しをしているときは、土地勘がない私に住みやすそうな地域を教えてくれたり、相談に乗ってくれたりもしました。お互いに予定があることもあったので毎日一緒に食事を食べるのは難しかったですが、友達と出かけていて帰りが遅くなる時も、事前に連絡しておくと私の分のご飯を取っておいてくれました。洗い物や掃除なども、お客さん扱いではなく私にもやらせてくれたので、居心地がとっても良かったです。雨が降った時に大慌てで一緒に洗濯ものを取りこんだりしたことも良い思い出です。

ホームステイが終わってからも、オーストラリア滞在中は何度かホストファミリーの家を訪ねました。お母さんたちのママ会に混ぜてもらったこともあります。訪ねる度に本当に実家に帰ってきたように迎え入れてくれて、素敵な家族の存在は本当に心強かったです。私の母と姉が日本からオーストラリアに来た時も、喜んで会ってくれました。また、母の日やクリスマスに連絡をするたびに、温かい言葉を返してくれますし、私が悩んだことや困った出来事を後になってから話すといつも「なんですぐ私に電話しないの!?私はKanaのオージーママなのだからすぐ電話しなさいって言っているでしょ!」と逆に怒られてしまうくらいです。本当に深い愛情を感じます。いつかオーストラリアに帰った時は少し凝った日本食を作って一緒に食べたいと思います。

【第三章】海外シェア生活

楽しい記憶より学びの時間だった

シェア

正直に言うと、私はシェア生活がとても苦手です。ホームパーティをしたこともありません。というのも、私は「家にいるときまで無理したくない。頑張りたくない。」と思っていたからです。ホームステイや語学学校では自分から積極的に話しかけたり、仲良くなるきっかけを作ろうと、気分も通常の3割り増しくらいで常に頑張っていました。でも、家に帰ってきた時くらいは、ゆっくり何も考えずにスイッチを切りたいと割り切っていました。他のREBORNメンバーがルームメイトと仲良くしているのを見て、「いいなぁ」と思ったこともあります。でも、あの時の私にはまったくそんな余裕がありませんでした。私のシェア生活の思い出は、ルームメイトとの楽しい時間という記憶ではなく、「世界にはいろんな人がいるんだなぁ」という学びです。

私は1年で2つのシェアハウス生活を経験しました。最初の家にはホームステイ後の3カ月間住んでいました。場所は、シドニー市内から電車で15分くらいのところにある、比較的新しく開発された街でした。最寄り駅の周辺にはアジア系スーパー、大手スーパーが2つ、カフェやレストランもあり、学校帰りに家の近所で買い物をして帰ることもできて便利でした。そんな場所で私は、今でも母親には話せないくらいのとても怖い出来事を経験しました。

投げられたのが生卵でよかった・・

シェア2

ある日バイトを終えて駅から歩いて家へ向かっているとき、一台の車が大きな爆音で音楽をかけながら前から近づいてきて、私とすれ違ったくらいのところで急に止まりました。するとそのあとなんと3~4人の男性が何か叫びながら車から身を乗り出してきたのです。私は「あ、危ない。死ぬかもしれない。」と思いました。そしてなんと次の瞬間、何かが私に向かってたくさん飛んできました。生卵でした。私は怖くて走って逃げましたが背中に生卵が命中し、余計に怖くなって走り続けました。その車は私の家がある方向に向かって行ったので、一人で家に帰るのも怖くて駅の近くの明るいところまで行きました。それでもまだあの車から聞こえる爆音と叫び声が聞こえてきていたので、足ががくがく震えて動けませんでした。本当に聞こえていたのか、頭の中に残っていただけなのかはわかりません。心細くて身動きが取れなかった私は、友達に電話をして迎えに来てもらいましたが、友達が来てしばらくして安心して、大号泣したのを覚えています。あんなに怖い思いをしたのは、アメリカでホームレスに追いかけられた時以来でした。次の日の朝、近所のいたるところで生卵が投げられた跡を見たので、私以外にも生卵を投げられた人がいたのだと思います。振り返ってみると、投げられたのが生卵で良かったです。

海外シェア生活は衝撃の連続劇場①死んだフリの・・・

当時住んでいたシェアハウスには私以外に3人住んでいました。ニュージーランド人、中国人、インドネシア人でした。それぞれが独立した部屋を持ち、バスルームは2つ、キッチンとリビングルームが共有でした。なぜか洗濯機はキッチンにあって、使いづらかったですが、無料で使うことができたので助かりました。皆それぞれ仕事をしていたので、家ではあまり交流はなく、家の中であった時に挨拶をして少し話す程度でした。シェアハウスでもいろんなことが起きました。リビングルームのカウチに座っていたら背もたれの方から大きなゴキブリが私に向かってきたリ、家の中でひっくり返って死んだフリをするゴキブリはたくさん見ました。始めはびっくりしましたが、3カ月の間で完全になれてしまい、最終的には足でひょいっと除けられるくらいになりました。オーストラリアでゴキブリを避けて生きるのは100%不可能だと思います。

海外シェア生活は衝撃の連続劇場②知らない男性が・・・

この家では他にもいろんなことがありました。中国人のシェアメイトの両親が中国から遊びに来ていて、この家に泊まっていたのです。もちろん、空いている部屋があったわけではなかったので、彼女の部屋しか使えないはずでした。でも、夜に私がシャワーを浴びようとバスルームに繋がるリビングルームに向かうと、カウチで知らない男性が上半身裸で出ていました。翌日、その男性はルームメイトのお父さんだったということが判明しましたが、衝撃的な出来事でした。

海外シェア生活は衝撃の連続劇場②自分の所有物は・・

他にも衝撃的だったのは、私が学校から帰ると、キッチンの床が牛乳でびしょびしょになっていたのを発見し、しかもその牛乳は私のものであるということを発見した時です。なぜ私の牛乳が冷蔵庫の中で倒れ、床にまで広がり、そしてそれに誰も気がつかず、私が帰ってくるまでずっと放置され続けたのは、今でも謎です。シェアメイトにその話をしても誰も何も知らないと言われるだけでした。その時から私は冷蔵庫の中の自分の所有物がどういう状態になっているかは常に把握するようになったし、ものの保管場所には本当に気を遣うようになりました。

海外シェア生活は衝撃の連続劇場④私のキープカップが・・・

こんな経験から、気を付けていたはずなのに、2件目のシェアハウスで私は過ちを犯してしまいました。お気に入りのキープカップ(コーヒー用のリユーザブルカップ)をキッチンの棚に入れてしまったのです。その棚は大きかったので、中で使用できる場所が仕切られていました。私はもちろん自分の場所にそのキープカップを入れていました。でも、その棚をシェアしていたのがインド人のシェアメイトで、彼はその棚に大量のスパイスを保管していたのです。見事に私のキープカップはカレーのにおいに大変身。コーヒーを飲もうと口に近づけるカレーとコーヒーのにおいが混ざってとても飲めませんでした。

そんな苦い思い出のあるスパイスですが、スパイスに救われたこともあります。私がマンゴーを切っていた時、うっかり自分の指まで切ってしまったのです。私が「手を切った!」と叫ぶと、彼はおもむろに棚からターメリックを取り出し、私が切ってしまった傷口にかけてくれたのです。なんでスパイスを傷口にかけるのだと一瞬焦りましたが、彼によるとインドではターメリックを薬としても活用するのだそうです。本当にその傷はすぐ治りました。割と深い傷だったのにすぐ治ったので、ターメリックのおかげだったと思います。

海外シェア生活は衝撃の連続劇場⑤朝はトイレは・・・

この家のシェアメイトも3人で、初めは韓国人、イタリア人、インド人、その後韓国人とインド人に代わってスロバキア人とコロンビア人が入ってきて…という多国籍な空間でしたが、全員男性です。よく住んでいたなと今更ながら思いますが、当時は男女比を気にしている余裕もなく、そもそも性別は見た目ではわからないので、まったく考えていませんでした。

問題は、彼らはみな朝の支度をする忙しい時間にそれぞれが長時間シャワーを浴びるということです。トイレにも行きたいし、歯も磨きたいし、髪の毛のセットや化粧は部屋でやっていましたが、4人の住人に対してバスルームが1つだったので、トイレやシャワーのタイミングはいつも見計らっていました。シャワーに入りそうなルームメイトに「ちょっとまった!」と言ってトイレに入るということもしばしばありました。REBORNのサバイブ塾で聞いていた話はこれか!と、シェア生活ならではの生活を経験できているなと、なんだかんだそんな状況を楽しんでいたと思います。

【第四章】語学学校

事前準備で目指した英語レベルでスタート

語学学校

語学学校では、笑って泣いて踊って泣いて笑ってまた踊って…とにかく忙しかったです。私の場合は、オーストラリアに到着した日が祝日の日曜日で、次の月曜日が振替休日になっていたため、幸いなことに到着してから学校初日までに1日の猶予がありました。それでも学校に行く前はとっても緊張していたし、気持ちが落ち着かなかったのを覚えています。なぜ緊張していたのかというと、理由は大きく2つあって、1つ目は英語のプレースメントテスト、2つ目は友達ができるかどうかです。

REBORNワーホリでは、Upper-Intermediate以上のクラスで入学することが推奨されていたのと、英語は比較的得意な方だったので、勝手にプレッシャーを感じていました。私がどのクラスで入学しようと誰も気にしないだろうに、勝手に周りからの評価を気にして緊張していました。後になって考えてみると、そういうプレッシャーは、その時はマイナスなものに感じるけれど、自分を奮い立たせてくれる大事な要素というか、諦めずに立ち向かい続けるために背中を押してくれるものなのだと感じます。結果的には、Upper-Intermediate(中上級)とAdvance(上級)の間のクラスに入ることができました。

初日から言葉と心の距離を感じつつ・・

語学学校 2

テストを受け終わって、オリエンテーションまで時間があったので、勇気を振り絞って近くに座っていた女の子に声をかけてみました。「いつオーストラリアに来たのか」「どこの出身なのか」「ここに来る前は何をしていたのか」などなど、お互いのことを知るための基本的な会話でした。話しかけるときは本当に緊張したけれど、話し始めてしまえば楽しくて、空き時間に2人でカフェに行ったりもしました。「外に行っても良いよ」と学校のスタッフから言われたのでカフェで時間までのんびりする予定でしたが、学生カードを配布するから戻ってきた方が良いと連絡があり、慌てて帰るというハプニングもありました。

学校に戻ると、彼女が別の女の子集団に話しかけてみようと言い、私をぐいぐい引っ張って行って輪の中に加えてくれました。フランス、ベルギー、スペインから来ていた彼女たちは、短期留学でオーストラリアに来ていたので1ヵ月の間だけの滞在でしたが、その後一緒にパームビーチに行ったりもしました。「あれをしよう」「これをしよう」とどんどん意見を言って決定していく彼女たちに圧倒され、その時は楽しさよりも気持ち的な疲れの方が大きかった気がします。全員フランス語スピーカーだったということもあり、言語の問題だけでなく、心の距離も少し遠く感じていたのだと思います。

語学学校では、とにかく「センター」を取る!

語学学校 3

学校のクラスは、何度かメンバーは変わりましたが、どのメンバーもどの先生も大好きでした。初日は、テストが終わってクラスが発表されると、自分で教室まで行きました。私のクラスの教室の電気が消えていて、中で何か映画のようなものを見ていたので入りづらいなと思い、教室の前できょろきょろしていると、たまたま教室に戻って来たクラスメートが「大丈夫だよ。一緒に入ろう」と声をかけてくれました。とてもありがたかったのと同時に、一人で教室にも入れない自分に呆れる気持ちもありました。

最初のクラスのメンバーはスペイン人、日本人、韓国人、スロバキア人、コロンビア人でした。REBORNワーホリの事前準備で言われていたように、クラスが盛り上がる中心に座ろうと周りを観察し、よく質問をするタイプのクラスメートの隣を自分の定位置にしてみました。周りの学生がどんどん発言するので、私もつられて話すようになり、いつの間にか「声が大きい元気な日本人」というイメージを持たれていました。

交渉してアドバンスクラス(上級レベル)へ

語学学校 4

入学して1週間経たない頃、私は先生に「アドバンスのクラスにいきたい」と話をしに行きました。先生へ話しかけるとき、すごく深刻そうな言い方をしてしまったので、先生にはとっても驚かれましたが、まだ授業の理解度を図る週1のテストを1回も受けていないし、私がどれだけ英語ができるのかわからないから私のためにもまだクラスは上げられないが、ライティングができるならキリの良い次のターム(2週間後)からアドバンスに入れてくれると言われました。

私は、テストはもちろん授業中もライティングを頑張って先生にアピールしました。ライティングは渡航前にもかなり練習していたので「見てください!できているでしょ!」という気持ちでやりました。無事、約束通りタームが切り替わるタイミングでアドバンスクラスに入ることができました。

日本人のイメージをひっくり返す

語学学校 5

アドバンスクラスでの最初のメンバーは私とスペイン人4人。先生もとっても気さくな方でした。授業に時間通りにくるのは私だけだったので、朝は先生と2人で会話ができる貴重な時間でした。ネイティブで、しかも英語の先生と2人で話せるなんて、私はラッキーだったなと思います。これもREBORNワーホリで言われていた通り、一番初めに教室に着いていると全員に「おはよう」とあいさつができるので、仲良くなるきっかけを作るには最高の方法でした。英語力やコミュニケーション能力に自信があったとしても、できる限り自分のチャンスを広げる姿勢は大切だと改めて感じます。

とても幸運なことに、私はこのクラスの中のムードメーカー的存在の元気なスペイン人の女の子と仲良くなり、「ジャパラティーナ」という素敵な称号をもらいました。後々、なぜ私と仲良くしようと思ったのかと彼女に聞いてみると、「日本人ってもっと静かで無口なイメージだったけど、あなたは全然違ったし、おもしろかったから。」と言われました。先生からも「Kanaは珍しい日本人だね。」と言われ、自分の殻を破れたような気がして、とっても嬉しかったです。彼女とはずっと同じクラスで、休み時間に歌ったり踊ったりして楽しい時間を過ごしました。今でも連絡を取り合う仲です。

アドバンスクラス(上級レベル)でも英語は歯が立たない

語学学校 6

しかし、アドバンスクラスの授業は簡単ではありませんでした。先生がホワイトボードを使って文法を教えてくれて生徒がノートをとるということはほとんどなく、先生もみんなと同じ輪に入り、それぞれの単元のトピックで議論をするスタイルが多かったです。私は英語があまりにもわからなくて涙をこらえきれなくなってしまったことすらありました。

ペアで週刊誌の記事を読んでお互いに得た情報を教え合うという場面で、私は全く記事が理解できず、ペアの人に申し訳ない気持ちと理解できない悔しさで、余計に頭が働かず、「私にはできなくて迷惑になりたくないので別のペアを組んでください」と自分から言いました。しかし、私のペアだったチリ人のクラスメートは、「これ難しいし、ゆっくりで大丈夫だよ」と言ってくれました。今度はその優しさに涙が出てきそうになりました。

休み時間になると、別のスペイン人のクラスメートが、テラスに私を連れ出して話を聞いてくれました。私の悔しい気持ちや情けない気持ち、すべてに共感してくれて励ましてくれました。先生も、そんな私の気持ちをくみ取り、私にあった英語の上達法を教えてくれました。その先生のクラスになってからまだ間もない時期だったのに、私の得意と不得意をよく把握してくれていて、的確なアドバイスをしてくれたことに感激しました。

学校には、先生や友達に会いに行く感覚で通いました。もちろん、課題や勉強もきちんとやりました。英語ができない悔しさと英語ができる楽しさを毎日感じながら、ワーホリ生活の良いスタートを切れたと思います。

【第五章】海外日本語教育ボランティア

シドニーからバスで8時間移動

ボランティア

私が派遣されたハイスクールは、シドニーと同じNSW州にある小さな田舎町でした。シドニーからはバスで8時間のところです。シドニーから向かうまでの道のりは、かなり大変でした。

まず、市内から電車に乗って行ける最南の駅まで行き、そこで予約していた長距離バスに乗る予定でした。しかし、駅まで行ってもそれらしきバスが見つからず、出発時間が刻々と迫ってきていました。不安になって停車していた一台の小さなバスを覗いてみると、中で休んでいた運転手さんが出てきたので、私が乗るはずのバスのことを知らないかと聞いてみました。すると、「このバスだよ。このバスでその高速バスの乗り場まで行けるから。」と言われました。そんな案内はどこにも書いていないし、誰にも教えてもらっていません。聞かないとわからない情報でした。私はその情報を手に入れたことで一安心してそのバスに乗り、やっと高速バスの乗り場らしいところにたどり着きました。想像していたよりも少し長めに待っていると、大きなバスがやってきました。

イジワルな運転手

運転手にチケットを見せると、私のスーツケースの重さをはかるや否や、「君の荷物は重すぎるから荷台に乗せられない。荷物を分けて持って入るように。」と言われました。そのバスの運転手さんの私に対する話し方は他の人に対するものとは少し違っていました。でも、言われるままにスーツケースの中身を持っていたスーパーの大きなバッグに入れてバスへ乗り込みました。他の乗客の方々は「ゆっくりでいいよ。慌てる必要はないよ。」と優しく私に声をかけてくれました。

途中休憩所に寄りつつ8時間バスに乗っていると、山の中の道端でバスが止まりました。そしてバスの運転手さんに「君が下りるバス停だ」と言われました。「え、私はこんな木しかないところに降ろされてしまうの?」と思いました。私の不安そうな顔を見て、乗客の女性が「そこに車が止まっているよ。あなたのお迎えじゃない?」と教えてくれました。バス停の名前と時間をホストファミリーに伝えていたので迎えに来てくれていたのです。運転手さんに早く降りるようにと言われ、大荷物をいくつも抱える私を他の乗客の方が手伝ってくれて、ホストマザーも車から降りて私を迎えてくれました。たかが3分間ほどの時間の中で、いろんな感情がこみ上げてきて心が一杯いっぱいでした。

ワーホリ生活2度目のホームステイ

そんなこんなでホストファミリーの家にたどり着くと、かわいらしい10歳の女の子と8歳の男の子が恥ずかしそうに私を出迎えてくれて、またまた私の荷物を運ぶのを手伝ってくれました。荷物は少ない方が絶対良いですね。

私のホストマザーは、私がボランティアをさせていただいたハイスクールの日本語の先生でした。学校では日本人の先生として、家では1番上のお姉ちゃんとして接してくれました。家では、一緒に料理をしたりお菓子作りをしたり、家の目の前に広がる人が全くいない冬の美しいビーチにお散歩へ行ったり、子供たちとサイクリングに行って大量のカンガルーに遭遇したり、野生のアザラシや海の動物たちもたくさん見ました。シドニーではできないオーストラリアの田舎ならではの貴重な体験をすることができました。

オーストラリアの定番チョコレート菓子をホットココアにディップしながら食べたり、家の中の階段をお尻で滑り落ちて遊んだりしたのもとても楽しい思い出です。

生徒たちの容赦ない英語スピード

ボランティア 2

現地ハイスクールでの活動も、貴重な経験ばかりでした。初日は、学校に行ってまず朝の朝礼で全校生徒に向かって挨拶をしました。日本のように職員室に全教科の先生が集まっているわけではなく教科ごとなので、スタッフルームでは日本語の先生と二人きりでしたが、その先生が生徒指導や福祉活動の担当でもあったので、毎日いろんな先生や生徒がオフィスにたずねてきました。私の顔を見ると「おはようございます」と覚えたての日本語で言ってくれる生徒もいて、とてもうれしかったです。

この学校では中学1年生だけが日本語を履修しています。5クラスほどあり、各クラス週に3回ずつ授業があったので、1週間にある日本語の授業は15回ほどです。この学校では日本語教育が始まったばかりだったので、生徒の日本語のレベルは初級で、授業の内容は基本のあいさつや自己紹介から始まりました。

私の役割は、自然な日本語の会話を作って生徒たちに日本語のリアルな音を聞かせること、生徒たちからのあらゆる質問に答えることでした。英語と日本語では話すときに使う筋肉が違うので、私たち日本語ネイティブにとって英語の発音が難しいのと同じで、英語ネイティブの彼らにとっては日本語特有の音の出し方や抑揚が難しいので、私が気にしたこともないような日本語の質問が飛んできました。時には、アニメや日本の伝統文化の話に突然変わることもありました。

彼らにとって私は「英語が話せる日本人」なので、良い意味で容赦ないスピードで、まっすぐ素直な質問をします。まず彼らのスピードについていくのがやっとで、かつ、学校という場で先生という立場で回答しなければならないので答える内容にもすごく配慮しました。日本語を教えるために行ったのに、彼らのおかげで私の英語を使う力がかなり伸びたと思います。

日本のトイレは鉄板ネタ!

通常の授業のほかにも、各クラス1時間ずつ使って日本についてプレゼンする機会もいただきました。生徒たちのほとんどは日本の文化やアニメには興味を持っていて、私が言わなくても知っていることが多いと感じたので、もっと日本人だからこそ伝えられる日常生活に近いことをトピックとして取り上げたいと思い、外国では見かけない日本の良いと思うところを私なりの視点で紹介しました。駅の自販機やきれいなトイレなどです。ショッピングセンターやデパートで見かけるきれいなトイレの入り口の写真を見せて「ここはどこだと思いますか?」という質問を投げかけたところ、クリニック、獣医、ヘアサロンなどの答えが返ってきました。私がトイレの入り口だよと言うとみんな、声を上げて驚いていてくれました。ウォシュレットのボタンに関するクイズもかなり盛り上がりました。

その中で一番印象に残っているのは、とある生徒から出た「そのベーコンみたいなものは何?」という質問です。私はトイレにベーコンってどういうことだと思っていたのですが、彼が言いたかったのはなんと、オレンジ色のボタンに3本ほどの波線が書かれた乾燥用のボタンでした。私はそもそもこのボタンに注目したことがなかったということと、場所がトイレだとわかったうえでこのボタンをベーコンみたいと表現することに驚きました。そんな突拍子もない質問のおかげで、どんな質問が来ても驚かずに対応できるようになったと思います。

改めて「日本」を知るキッカケに

ボランティア 3

他にも盛り上がったのは、自動販売機の話をした時です。日本では電光パネルを押して交通系ICカードをかざすだけで簡単に飲み物が手に入りますが、オーストラリアでは自販機はめったに見かけないうえ、ペットボトルの飲み物は日本の2~3倍の値段のため、みんなからうらやましがられました。また、私にとっては当たり前だった、冷たい飲み物と温かい飲み物が変えるという点も、オーストラリアの人たちにとっては感動的な機能だということを認識しました。自分の国の日常を紹介しているはずだったのに、彼らオーストラリア人の眼を通して改めてみてみると、私が気にしていなかったこと、今まで考えもしなかったようなことに気が付くことができました。他にも、書道や折り紙、焼きそば作りなどもやりました。1ヵ月という限られた時間の中でしたが、いろんなことに挑戦することができました。

また、日本語の授業以外にも、空いている時間に他の授業に参加させていただきました。国語や社会、音楽、ドラマ、農業と、日本でも行う授業もあれば、私が通っていた学校にはなかった授業もありました。音楽の授業では、高校生の選択授業のレベルになると、単に座学や楽器に触れるということをはるかに超え、少人数制でのレコーディングやコンピューターでの編集などの仕事に繋がるような実践的な内容もありました。ドラマの授業でも、テレビで見たことがあるような芝居のウォーミングアップから、先生が言ったシチュエーションを即興で演技をするトレーニングなどを行っていました。私も一緒にやらせていただきましたがかなり難易度が高く、楽しそうにやりこなす生徒たちを見て驚きました。農業の授業では、牛に餌をあげたり、ニワトリの卵を観察したりしました。牛がえさに向かってくるときの勢いがものすごくて私がひるんでいると、生徒たちがこうやればいいんだよと教えてくれました。オーストラリアの田舎で育った子供たちはたくましくなるなと改めて感じた瞬間でした。

日本語教育ボランティアが大きな目的ではあるものの、私にとっての学びも非常に多くありました。生徒たちのまっすぐな姿勢に私もまっすぐ向き合い、当時の私のありったけのGiveを出し切ったからこそ得ることができた学びだと思います。

【第六章】海外インターンシップ

オーストラリア人99%環境、コーヒー大国でバリスタ挑戦

インターン 1

私は、コーヒーハウスでのバリスタのインターンシップに挑戦しました。もともとコーヒーは好きな方ではあったものの、専門的な知識があったわけではありません。せっかくオーストラリアというコーヒー大国でチャレンジできるなら、その土地らしい何かを深堀りしたいと思ったのと、オーストラリアならではの環境に身を置きたいと思い、バリスタに挑戦させていただきました。コーヒーハウスがあったのがシドニーのもっと西の方にある街で、いかにもローカルという雰囲気がある場所です。お店も何件か横に並んでおり、お店同士のご近所さん付き合いも温かいものでした。常連のお客さんも多く、1日に3回コーヒーを飲みに来る人もいます。お店のスタッフとお客さんも家族のような関係で、お互いのことをよく知っています。そんな繋がりの強い温かいコミュニティでのチャレンジでした。

数々の賞を受賞した国際大会審査員を務める達人から学ぶ

インターン 2

インターンシップは1週間のインプットと実際のカフェでのお仕事4週間でした。初めの1週間で、コーヒーの歴史、コーヒー豆の種類や産地、ローストの仕方による味への影響、挽き方、抽出方法、それぞれの飲み方など、かなり専門的な内容を学びました。科学に似た印象で、とても興味深かったです。

座学で学んだあとは、2日間お店の地下にあるマシーンでひたすらエスプレッソの抽出とミルキングの練習をしました。エスプレッソの抽出のし方ひとつでコーヒーの味が変わってきます。また、理屈が分かっていないとお客さんが望むコーヒーを抽出できないこともあります。座学で正しい知識をつけ、理屈が分かったうえで正しく抽出を行う技術が求められます。ミルクも初めからラテアートの練習をするわけではありません。おいしく正しいミルクがフォームできるようになることが最優先です。オーストラリアの本格的なコーヒーは、ミルクの細かい泡の層の厚みが2ミリ違うだけで違うメニューになってしまいます。また、ミルクの種類も多く、種類によってフォームのたち方も違います。気にしなくてはいけないことが本当にたくさんあるのです。

ほぼ常連客ばかり、コーヒーのカスタマイズは当たり前

インターン 3

しかも朝の人気コーヒーハウスと言ったら混雑どころの話ではありません。ものすごいスピードで、お客様一人一人の要望に合ったコーヒーを提供していかなければならないため、少しもとまどう余裕はありません。

実際に店頭でのインターンシップが本格的に始まったころはわからないことだらけで、メニューもないのでお客さんが希望する通りにオーダーを出さなければいけません。単純に選ぶだけのメニューならばよかったのですが、そういうわけにもいきませんでした。オーストラリアの人たちは、コーヒーのカスタマイズが当たり前です。また、そのオーダーの仕方もそれぞれ違い、コーヒーの強め弱めの表現にもいろんな表現の仕方があります。特に常連さんは注文を声に出さないことさえあります。マイカップを出してお金を払うだけです。もちろん、私以外のスタッフはわかっているので彼らが困ることはありません。でも、このままわからないままではもし私がコーヒーを仕上げる立場になった時に困ると思い、営業が落ち着いたときに、ベテランのバリスタに常連さんのオーダーについて聞いて教えてもらったりしました。次にそのお客さんが来た時に、私の方からお客さんのオーダーを声に出すと、「あなたやるじゃない。よく知っているわね。」と言ってくれました。家族のようにつながりの強い出来上がったローカルコミュニティに入っていくには、こういった地味な努力の積み重ねが必要でした。

時間があるときは常にミルキングの練習をし、いろんなバリスタからそれぞれのやり方とコツを教えてもらいました。それぞれ言っていることは違っても、言われた通りにたくさん練習していくうちに、私に合った方法が見つかっていきました。土日の朝の忙しい時も、絶対にくじけないぞと決意をしてコーヒーマシーンの前に立ち、周りがどれだけあたふたしても、私のミスでないことで注意されても、ただひたすらに素直に等身大の私ができる精一杯のことに取り組みました。聞き間違いをして迷惑をかけてしまったこともあったし、勘違いをして不要なことをしてしまうこともありました。でも、なぜ自分が間違えたのかを明確にして、同じ間違いを繰り返さないように、ひたむきに学ぶ姿勢を持ち続けました。お客さんの前であるという逃げられない状況での新しいことへの挑戦は、精神的にも英語力の面でもかなり成長させられました。

プレッシャーを浴び続けて成長していく

インターンシップ中の一番のピンチは、ロースタリーの工場の一角のカフェスペースにて一人で接客をした時です。いつもはベテランのバリスタが担当しているポジションですが、代わりのバリスタが見つからず、まだ修行中の私がやらせていただくことになりました。そこに来るお客さんは、常連さんがほとんどで、私の姿を見ると「あれ?いつものバリスタは?」と何度も聞かれました。聞かれるたびに、「私のコーヒーを飲みに来たわけじゃないよね。そうだよね。」と心の中で思いながらも、笑顔で自信ありげに「今日はいないの。何にしますか?」と言い続けました。お客さんに不安を与えてはいけないと必死で自信満々のヴェールをかぶって接客しました。小さなスペースなので、私がコーヒーを作っている間はずっと見られています。緊張しました。普段ベテランのバリスタを見ているお客さんは当然、私が新人だということを見抜きます。心配そうに見つめられることもありました。思い出すだけで緊張してきますが、このプレッシャーを浴びた経験があったからこそ、もっと頑張ろうと思ったし、強くなったと思います。

ここでも日本人が武器に!

インターン 4

お店の常連さんの中には、日本人のお客さんも何人かいらっしゃいました。初めは私が日本人であると気が付かない方が多かったですが、何かのきかっけで話すようになりお互いに日本人だとわかると、次に来た時から名前を呼んで話しかけてくれたりするようになりました。いつもは一人でコーヒーをピックアップしに来るだけの方も、週末に家族を連れてきて紹介してくれたり、今までよくわからずに買っていたコーヒー豆の種類の相談を私にしてくれる方もいました。いかにもオーストラリアのローカルコーヒーハウスといった雰囲気の中で、日本人同士で話ができるのも、すごくうれしかったです。

オーナーには、近所に住む日本人のお客さんも大事だから頼むよと言われました。お店で扱っているコーヒー器具は日本製のものも多く、日本語で注意事項が書かれていることもあったので、他のスタッフに意味を聞かれることもありました。こんなローカル環境でも日本人であるということがそのまま武器になることがとても嬉しかったです。

インターンシップ期間で戦力を証明

インターン 5

たいてい、オーストラリアのローカルカフェでバリスタとしての仕事を探そうと思うと、「2~3年以上の経験必須」や「1日のコーヒー消費量10キロ以上のハイペースなカフェでのメインバリスタ経験あり」などの厳しい応募条件付きです。一人前のバリスタになれ収入に困ることはないとも言われることもあるバリスタという仕事を獲得するのは、決して簡単ではありません。結果的に、インターンシップを経て正式に雇っていただくことができましたが、自分の力だけではバリスタというお仕事を手に入れるのは難しかったと思います。

インターンシップに限ったことではありませんが、与えられた環境や巡って来たチャンスを最大限に活用して、欲しい経験を手に入れるということの緊張感や楽しさを感じましたし、その感覚は、その後のワーホリ生活で何度も私自身の原動力になりました。

【第七章】ジョブハント

所持金が底をつきそうになる

ワーホリが始まって半年が経ちインターンシップを始めたころ、所持金額が$400を切りました。次の週には家賃1週間分を支払わなければならなかったので、所持金はまもなく半減することが分かっていました。そのままだとそのまた次の週の家賃を支払って私の所持金はほぼゼロになるという計算でした。唯一家は見つけたものの、仕事もなくお金もどんどんなくなっていくという現実を見て精神的にはどん底で、当時仲の良かった友達には毎日どうしようもない弱音を吐いていました。しかし、ずっと嘆いていても何もしなければ何も変わらないということに焦りを感じ、厳しい現実を受け止め、本格的に仕事探しを始めました。

せっかく手に入れたチャンスを逃す

まず、ネットで目についた求人にひたすら応募し、レジュメを何十枚も印刷して直接お店に行って配り歩きました。仕事を探し始めて2日目くらいに、早速カフェのオールラウンダーの面接のチャンスを手に入れました。面接に行くと、マネージャーがまだ来ていないからと1時間ほど待ちました。緊張しながらじっと待っているのはとてもつらかったです。結局マネージャーではないスタッフの方が面接をしてくれて、そのままトライアルに入りました。2時間ほど実際に働きました。テーブルの片づけをしているとお客さんに話しかけられるし、質問されてもなんて答えたらよいかわからなくて、戸惑いながらも仕事をゲットするために、テキパキ働けることを行動で示そうと必死にアピールしました。しばらくするとやっとマネージャーが到着して、働きながら面接のように色々質問されました。聞かれる内容は複雑ではありませんでしたが、手を動かしながらマネージャーの質問に答えるのはなかなか難しかったです。最終的には、トレーニングのシフトを入れてくれることになり、その日中にはシフトの連絡が来ました。その時までは順調に進んでいると思っていました。

しかし、私は大きな過ちを犯してしまったのです。トライアル後の初めてのシフトの時間を間違えてしまい、本当は朝の7時に行かなければならなかったところ、夜の7時に行ってしまいました。当然、トレーニングはしてもらえず、マネージャーに謝罪の連絡を入れ再度トレーニングシフトをいただけないかと交渉しました。同じ時期にインターンシップもやっていて、私にとっては優先度が高かったインターンシップの日程を優先した結果、私のスケジュールでは今のメンバーのシフトに組み込むのは難しいと断られてしまいました。その時の私にとっては、インターンシップでの学びと経験がとても重要だったので、すぐに気持ちを切り替えて、別の仕事を探し続けました。

時給の安いキャッシュジョブはとにかく避けた

その後いくつかトライアルはゲットしたものの、給料が手渡しのキャッシュジョブで時給がローカルジョブよりも$10ほど低いものが多かったため、引き続きレジュメを配り歩きました。ワーホリ後に待っているニューヨークでのプログラムではESTAで滞在できる最大期間(3カ月)を使いたいと思っていたため、その分の生活費は残りの半年で稼ぐ必要がありました。そのため、どれだけ難航しても時給の安いキャッシュジョブは絶対に選択しないと決めていました。レジュメを配り始めたときは、お店の前を通り過ぎて一回様子を見て、戻ってみるものの足が動かず、お店に入るまでにかなり時間がかかりましたが、徐々に回数を重ねていくと慣れてきて、あまり躊躇せずにできるようになりました。「今は募集していない」と言ってレジュメを見てくれなかったり、私のレジュメを見ているマネージャーの横にいたスタッフに馬鹿にするように笑われたこともありました。それでも落ち込んでいる場合でもないので、毎日へとへとになりながら精一杯笑顔を作って仕事を探し続けました。

最後まであきらめなかった

ジョブハント 1

するとある日、トライアルに来ないかと電話がありました。突然の嬉しい連絡に、電話の相手が誰なのかを聞き逃して聞き直してしまったほどです。たくさんのお店にレジュメを渡していたので、一瞬「どこだっけ?」と思いましたが、念のためにと場所を確認すると、家の近所のホテルのパブであることが分かりました。もう帰ろうかと思いながらも、最後の力を振り絞って訪ねたお店で、レジュメを受け取ってくれたスタッフが「マネージャーから連絡がいくと思うから」と言ってくれたところでした。ゲーミングをとりあつかう資格であるRCGを持っていなかった私は、まさか本当に電話がかかってくると思っていなかったので、まさかの展開でした。

トライアル後に仕事ゲット!

ジョブハント 2

トライアルに行くと、簡単にメニューの説明と、ビールの注ぎかた、レジのPOSシステムの基本的な操作方法を教えてもらったあと、バーで一人になりました。ビールの種類だけでも8種類、何がどこに書いてあるかもわからない液晶画面とにらめっこしながら、何とか注文も取りました。特別なスキルがなくてもできる片付けなどはテキパキ丁寧に行い、メニューの内容を質問したりして、今後も働く気満々だぞという勢いで取り組みました。するとマネージャーから、来週からシフトを入れるからと言われ、電話番号を渡されました。トライアルの分の給料も払うからねと言われて、その日は終了しました。しかし、数日待ってもなかなかシフトの連絡がこなかったので、私から連絡してシフトをもらえるように話し、ちょうど代わりを探しているスタッフがいるから代わりに入ってと言われ、無事に正式にお仕事を獲得することができました。もし、あの時私から確認の連絡をしていなかったら、そのまま忘れられてあのパブでは働けていなかったかもしれません。欲しい環境は待っているだけでは自分の手の中には入ってこないと改めて感じました。

「日本人だから英語ができない」と思われた教官を見返す

私が働いていたパブには、スポーツバーと、ビストロ、ゲーミングの3つのフロアがありました。どのフロアでも働けるようになってほしいからと、RCGを取得するようにマネージャーに言われました。私と同じタイミングで新しく入ったスタッフがいたので、一緒にRCGの講習を受けに行きました。講習当日、教室に着いて教官に身分証としてパスポートを見せると、「あなたは日本人?この講習はかなり高い英語力が必要だけどできるのか?」と聞かれました。わたしは日本人というだけで英語ができないと思われてしまうことに憤りと悔しさを感じつつ、「大丈夫です。」と答えました。約束していた同僚と一緒に教室の一番前のど真ん中の席に座り、少しオーバー気味のリアクションで講習を受けました。時々、なぜか教官は私のメモやテストの回答欄を確認しに来ました。講習が終わって無事RCGの取得ができることが決まり、教室を出ようとすると、教官に「あなたはすごい日本人だったんだね。あなたならどんな仕事もできるよ。」と言われました。国籍だけで勝手に判断されて悔しかったのですが、この数時間で見返すことができてとても嬉しかったです。

スポーツバー、ゲーミング、ビストロが揃う「PUB」で働く

ジョブハント 3

実際にパブで働き始めると、いろんなことが起きました。3回目のシフトでパーティのスタッフをやりました。普段もざわざわとしていて声は聞こえにくいですが、DJがいるパーティになるとお客さんもスタッフも叫ばなければ何も聞こえないため、本当に大変でした。新人という扱いは特になく、初めのうちから一人前のスタッフとして扱われるので、すべて自分でどうにかしなければなりません。見て学んで、聞いて学んで、バーで立って待っていても手取り足取り教えてくれる人はいないので、仕事ができるようになるかどうかは100%自分次第です。できないと当然クビになるし、シフトはもらえません。私も初めは、固定のシフトはあまりもらえませんでしたが、空きが出たときや、マネージャーから頼まれたシフトは自分の予定を何とかやりくりして真っ先に「やります!」と言うようにしました。すると徐々に固定のシフトも増えてきて、空きが出たときも最初に声をかけてもらえるようになりました。

魔のメルボルンカップ

ジョブハント 4

徐々に慣れてきて、パーティのシフトも楽しめるようになったものの、苦い思い出もあります。オーストラリアでの一大イベントの一つの、メルボルンカップの日の仕事です。この日はパブにおめかしをしたお客さんがたくさん訪れ競馬を楽しみます。私が働いていたパブも例外ではなく、メルボルンカップ用のコースメニュー、店内レイアウトになりました。ちょうどその時期にべニューマネージャーが解雇され、オペレーションマネージャーも解雇や退職していたため、グループの本社からスタッフが現場の取り仕切りのために来ていたこともあり、雰囲気はいつもと全く違いました。そもそもメルボルンカップが何かをよく知らない私は、想像していたよりもはるかにビッグイベントであることがわかり、あたふたしてしまいました。そんな私の様子を見て本部のスタッフに声を掛けられ、いつ「帰っていいよ」と言われてしまうのか怖くて、必死に働きました。何とか働き終えた頃には精神的にも体力的にもへとへとな状況でした。

職場もお客さんも日本人は私一人だけ

ジョブハント 5

また、私が働いていた時期にちょうどラグビーワールドカップが開催されていたため、試合のある日はたくさんのお客さんで賑わっていました。ニュージーランドとアイルランドからのお客さんが多い印象でした。日本対アイルランド戦の時も私は働いていたので、日本が勝った瞬間は、緑のジャージーの中で一人で心の中でガッツポーズをしました。オーストラリアのパブで、誰もがアイルランドの勝利を期待して盛り上がっていた中、日本人ひとりが紛れ込んで働いているという状況がなんだかおもしろく感じました。ワーホリ生活で自分の存在を薄くしようと努力したのはこの時だけです。

ホテルのレセプションもたまに(笑)

ジョブハント 6

私が良く働いていたビストロバーには、時々電話もかかってきていました。ビストロでの食事の予約や、バースデーパーティの打ち合わせの連絡はもちろんのこと、パブの上の階にあるホテルの予約の電話がかかってくることも良くありました。私は電話が本当に嫌いで出たくなかったのですが、忙しくない時間帯だと私しかバーにいなかったので出ざるを得ず、しぶしぶ対応していました。基本的には、ホテルの受付は地下のボトルショップが兼ねていたのでそちらへ転送すればよいのですが、転送がうまく機能しない場合も多く、私はホテルのレセプションになったのかと思う日もありました。お客さんはまさかバーに電話がつながっているとは思っていないので、前振りなく突然ホテルの部屋の話をしてくるので、相手の状況を把握するのは私にとっては容易なことではありません。でも、この経験のおかげで、英語で電話を話すことにも慣れることができました。

所持金$400から貯金$10,000オーバーを達成

ジョブハント 7

仕事を始める前の所持金$400で2週間後には無一文になるという危機的状況から、結果的にはニューヨーク滞在3カ月分の生活費と飛行機代を貯金することができました。お金だけが判断基準ではありませんが、異国というアウェイな状況でここまでやり切ったことは、私の自信になっています。その過程では辛いことも苦しいこともたくさんあったけれど、落ち込んでいる暇は皆無だったのであまり覚えていません。甘える場所がない状況で、自分のポジションを築くところから必死に働くという経験を、20代のうちに手に入れられたことは非常に大きな収穫です。

【第八章】ニューヨークでの活動

ワーホリで腕を磨いた能力と経験をぶつける

ニューヨーク 1

ニューヨークでの活動は、まさに「自由と責任」という言葉がぴったりでした。それまでオーストラリアで必死に全力疾走してきたうえで、プログラム終了後を見据えて自分はニューヨーク滞在中をどう過ごすのかを考え、初めの1週間で目標を決めます。選択肢は様々だし、自分でやりたいことがあればチャレンジもできる環境です。「これをやってください」と言ってくれるような易しい環境ではありません。自分で考えて自分で選択して自分で行動を起こしていく必要があります。やるかやらないかは自分次第。そんな環境に緊張しつつも、わたしはワクワクしました。

目標はニューヨーク最大級のイベント出店獲得

ニューヨーク 2

私が決めた目標はニューヨーク最大級のストリートフードイベントの出店店舗獲得135件。2020年の開催は全13回で、各回最大30店舗ほどの枠があったので、1年全体の営業目標の約3割でした。こうやって数字にしてみると、いかにすごいイベントがニューヨークで行われているかが良くわかります。営業経験ゼロの私にとっては135件という数字はとてつもなく大きなものでしたが、それを達成しても必要な営業成果の3割ほどです。これまで、それだけの多くの参加者を集め、ニューヨークの人々を魅了し続けてきたイベントに少しでも携われるということがとても嬉しかったです。

1000件、100件、やっと1件

ニューヨーク 3

ニューヨークに着いた3日目から本格的に営業活動を開始しました。営業の経験もノウハウもない私は、ソーシャルメディアを通して1日に100件のメッセージを送ることを目標に取り組みました。100件送って返信があるのは1件あるかどうか、1000件アプローチをかけてやっと1件決まるかどうかという割合です。返信が来ても、質問への答え方が適切でないと、その後の申し込みまでつながりません。これは単なる英語の問題というわけではなく、言い回しが失礼でないことは最低限のこととして、営業としてのテクニックの問題です。常に「相手が何を考えていて、何を知りたいと思っているのか。何がしたいと思っているのか」を想像し、聞き出し、相手にとって有益な情報をきちんと伝えることが求められました。なかなかうまくいかず、やり取りをしていたのに突然連絡が返ってこなくなったり、冷たい言葉が返ってきたりすることも少なくありませんでした。

ニューヨーク活動中は英語が99%(チームの日本人を除く)

ニューヨーク 4

私が1番困ったのは、「詳細が知りたいから電話をください」というパターンです。このパターンが少なくないのです。こちらの目的を達成させるためには、交渉上手の相手に対して私が主導権を握って話をする必要がありました。しかし、そんなことは突然できるわけがありません。かなりてこずりました。電話をしながら、「お願い。出ないで。テキストさせて。」と思いながら電話をかけることもありました。

活動を本格的に始めて2週間目に入ったころ、メールでやり取りをしていた出店に前向きな店舗から、「オーナーが直接電話で話をしたいからこの電話番号に電話をください。」と連絡が入りました。この店舗は出店に前向きだったからこそ丁寧に申し込みまでアシストしたかったため、電話をする流れになった時には焦りました。電話で不信感を与えてしまったら今までの良い流れが台無しになってしまうと思ったからです。

このストリートフェスの営業を始めて日の浅い私は、フェスに関する基本的な情報は頭に入れていたものの、何を質問されるかわからない状況での電話での営業はとても緊張感がありました。実際の電話での会話は和やかでしたが、最終的には出店料の交渉になりました。金額は私には判断できないのでその場で工夫できるのは、私が使える武器を使って、より魅力的に聞こえるように話すことでした。するとオーナーからは、「一度店舗に来て商品を試してほしい」と言われました。

その店舗はニュージャージーにあったので少し遠かったのですが、営業テクニックも経験もない私は足で不足を補うしかないと考え、そのお店に向かいました。オーナーはお店の商品を私に渡し、商品の説明をしてくれました。私は、オーナーが出店に関して気になっているだろうと思うことを明確に伝えました。すると、最後には「2回分ほど申し込むよ。」と言ってくれました。後日、実際に手続きが完了し、初めての受注が決まりました。でも、嬉しいというよりは、「まだまだこれからだ」という気持ちが大きかったです。

その後、ニューヨークの東側や、マンハッタンの日本食店街へ行って直接営業をしました。お店によって対応は様々でしたが、冷たくあしらわれることが多く、楽ではありませんでした。でも、オーストラリアで仕事を探しているときにレジュメを配り歩いた経験があった私は、飛び込んでいくことには多少慣れていたため、根気強く続けることができました。雨と風が強い中、一生懸命たどり着いたお店で、「Huh?」とだけ言われてそのあとは何も返事が返ってこなかったときは、さすがに悲しくなりました。

ニューヨーク 5  

直接足を運ぶ営業と合わせてソーシャルメディアからのアプローチも続けていました。その中で、4つほどの業態のお店を持っているオーナーとやり取りが続くようになり、一度お店に食べに来ないかと言っていただきました。全部のお店に直接会に行けるわけではないので悩みましたが、フェスの出店や新しい顧客の獲得には前向きな方だったので、会いに行くことにしました。商品のテリヤキチキンを食べながらお店の地下にあるオフィスで2時間以上話しました。フェス自体のことはもちろん、オーガナイザーの思いにまで共感してくれ、お店を持つことになった経緯や業態を増やしていったときのことや今後の展望まで聞くことができました。しかし相手は複数業態を経営するビジネスマンです。ニューヨーク滞在期間中にフェスの申し込みまではアシストすることができませんでした。でも、私たちの活動には賛同してくれていたので、今後何かしらの形でコラボレーションできる日が来るのを楽しみにしています。

コロナの影響

ニューヨークに行って2カ月が経とうとする頃、世界中に新型コロナウイルスが蔓延し始めました。ニューヨークはみるみるうちにコロナのホットスポットになり、フェスの営業活動は一旦停止、フェスの開催も中止が決まりました。私は、営業の目標は達成できなくなってしまいましたが、出店する予定だった皆さんに対して何かできることはないかと考え、フェスの公式ソーシャルメディアでコロナの渦中でもデリバリーやテイクアウトで営業を続けている店舗の応援のための宣伝活動を始めました。

営業時間や注文方法などの情報を集め、画像を作成して公開していきました。お店からはお礼のメッセージが届き、中には電話でお礼の言葉を伝えてくれる方もいました。私の予定していた活動は出来なくなってしまったけれど、私よりもピンチな状況で必死に踏ん張る方々を見て、私が文句を言ったり弱音を吐いたりすることは違うなと感じていました。お店とその従業員を守るために奮闘する経営者たちの言葉をあの状況の中リアルタイムで聞くことができた私はラッキーでした。自分ばかりが大変だと錯覚せずにできることに取り組もうと前向きになれたからです。

これからの人生もっともっと楽しめる

ニューヨーク 6

私が学んだのは、未来に向けて入念な計画を立てても、自分でコントロールできないことによって阻まれて予定通りに行かないことも多いにあり得るし、そこで立ち止まっていたら何も起きないまま時間が過ぎて行ってしまうということです。自分がコントロールできないことに目を向けるより、自分がコントロールできることに目を向けて、その時できる精一杯を積み重ねていくことで、オリジナリティあふれる自分の人生を楽しむことができるのだと思います。

ニューヨークでの経験は、海外でのビジネス経験としても今後に生かせますし、それ以上に、自立して自分自身で決断して道を切り開いていこうというマインドを手に入れることが出来ました。

留学相談

毎日無料で本気の留学相談を行っています

REBORNのこともっと知りたい!

まず色々聞いてみたい!

憧れを現実へ変える一歩を
今、踏み出そう

今すぐ資料をダウンロード!
© 本気の留学・ワーホリプログラム REBORN project All Rights Reserved.