すべてのことにチャレンジ
日本人版ファーストペンギン!
自分へ最大限挑戦したから、周りにも優しくなって成長につながった
東 夏海 21歳(大学生)
【序章】REBORN projectとの出会い
ニュージーランドに行く予定だったが...
2017年2月に2週間のフィリピン留学に行き、今度は長期での留学に行きたいと考えていました。3月に行くことを決心し、自分で留学エージェントを回り始めましたが、知識がなく、出発希望日までの余裕がないことから焦り、長期留学の経験のある先輩から勧められたひとつ目の留学エージェントで見積書を出してもらい、一度しか顔を合わせたことしかないにも関わらず、留学代金を振り込む直前でした。(後から思えば大した差はないように感じますが、今ちょうど円安だから下がる前に振り込んでしまった方がいいと聞いていたため、さらに急いで契約を進めていました)
最初は「せっかく長期留学に行くなら集中したいから」という理由で、ネットで調べた「遊ぶ場所が少ないから集中できる」という情報だけで決めつけ、ニュージーランドに行く予定でした。
そこで、ニュージーランドの留学経験のある後輩に相談したところ、その後輩がヒロさんの知り合いで、「是非ヒロさんに会ってアドバイスもらってください!!!」とおすすめしてもらい、3人で会ってお話を聞いたことが、最初の出会いでした。出会う前は「ニュージーランド留学のアドバイスが貰えたらいいな」という気持ちだけでしたし、まさか自分の留学生活にこんなにも大きな影響を与えるとは思っていませんでした。
今までのワーホリのイメージがひっくり返った
ヒロさんのお話を伺って、自分がこれから行く留学について、国について全く知らなかったことに気づきました。決めようとしていた留学エージェントの方は、自分の将来の展望も自分の英語力も、国についての説明も全くなく、それなのに決める直前だった自分が恐ろしくなりました(笑)。自分も留学エージェントの対応の「普通」が分からなかったので、それに何の疑問も持っていませんでした。「まだ試行錯誤中なのですが試しに聞いてみてください」という感じでREBORNワーホリの話を聞きました。聞いた瞬間に「私がしたかったのはこれだ」と思いました。完全に気持ちが切り替わりました。これが出発4か月前の5月でした。
今までワーホリと言われると、学校に数ヶ月通い、その次に働く、というイメージで、他の先輩にもワーホリは英語力伸びないよと言われていたので、自分がワーホリ行くことは全く考えていませんでしたが、REBORNワーホリのプログラムを聞いてからは、今までの常識をひっくり返された思いでした。一つ一つに理由と目的があり、自分がオーストラリアで留学している姿が思い浮かぶことができたことが理由で、このプログラムで英語力を伸ばす!このプログラムで行きたい!と思いました。
それから、親に話をして説得を試みましたが、大きな留学会社でもないし、そのころにはホームページもまだなかったので、親からの信頼を得るのがすごく大変でした(笑)。私の両親曰く、オフィスに行ったときにヒロさんから直接お話を伺って、信頼できるようになったみたいです。
【第一章】渡航前事前準備講座
現地でどれも役に立った事前準備講座
それから、多い時には大学と両立しながら事前準備は詰め込みで頑張りました。英語のレッスン・会話レッスン・向こうでの過ごし方の知識面のレッスンがありました。現地で本当にどれも役に立ちました。英語レッスンは自分にあった計画を立てるアドバイスをもらえ、添削も丁寧にしていただきました。英語を担当してくださったカナ先生は、英語だけでなく、精神的にもたくさん助けていただきました。途中でモチベーションが下がりそうになった時、自分の生活との両立が大変で、いっぱい、いっぱいになった時にお話をたくさん聞いてもらいました。年齢的にも近く、相談に乗ってもらい助けていただいたことはとても大きかったです。
会話レッスンでは、実際にオフィスの外を英語のみで会話しながら歩くというものもありました。これは、日常生活で英語のみで会話する機会はなかなかないので、「自分がこんなにも話せないのか」と気付く機会でした。現地に行って、実際に英語のみの会話になったときに、同じようなもどかしい状況は多々あったのですが、あらかじめこのような状況を経験しておくことによって、頭が真っ白にならずにすみました。
【第二章】ホームステイ
初日からサプライズ(笑)
私のホームステイ先は、Coogeeビーチから歩いて20分ほどの場所にある一軒家で、家族はお父さん、お母さん、高校生の娘さんと中学生の息子さんでした。実際は大学生の娘さんもいらっしゃるのですが、オーストラリアでは大学生から家を出て一人暮らしするのが一般的らしく、もう結婚して家から出ていました。
空港に着くと、お迎えの純子さんが待っていて、一緒にミーティングをした後にバンに乗ってステイ先に行きました。ここで純子さんとはお別れでした。それから何もかも一人で、口から心臓が飛び出そうになるくらい緊張していたのを覚えています。
ステイ先につくと、ホストファミリーが待っているはずが、なんと留守でした。私がいない間に外に買いものに出かけてしまっていました。運転手の方がホストフェミリーに電話してくださり、「ごめん~お庭で待っていて~」と言われ、彼らが帰ってくるまで一人、庭で待っていました。初日からサプライズです(笑)。
お庭に着くなりびっくり。大きなプールにバスケットゴール、様々な種類の植物と、もうとても広かったです。20分ほど待っていると、ホストファミリーがようやく帰ってきました。彼らはすごく明るく、私の緊張は少しずつほぐれていきました。そして、学生の受け入れに慣れているので、丁寧に手際よく部屋の案内やバス停までの案内をしてもらえてとても助かりました。バス停までは一緒について道順を説明してくれました。家の中も驚くほど広く、まるで映画の中に出てくる家のようでした。なかでも助かったのが、いい意味で自由にさせてもらえたことです。門限もないし、お風呂も洗濯も何時にしても大丈夫でした。そして、何より帰ってきたら「How was today?」と必ず聞いてくれて、会話をする機会を作ってくれて救われたし、嬉しかったです。
私の大好きなホストファミリー
ホストファザーは子どもを決して怒ることのないおっとりとしたとても優しい方でした。オーストラリアの家庭では、女性よりも男性が家事をすることが多くて、洗濯物、掃除、料理もホストファザーがしていました。私がWritingを伸ばしたいと言うと、ホストファザーが毎日私の英語で書いた日記を添削してくれました。また、家探しの時もメール文を添削してくれて、エリアの相談にも乗ってくれました。 ホストマザーは明るくてテキパキしていて、面倒見のいい方でした。たくさん話しかけてくれて、アドバイスもくれました。私の英語ができなくても沢山褒めてくれて、とてもうれしかったことを覚えています。家を出た後もメッセージカードを贈るたびにテキストをくれました。
お姉さんは、元気いっぱいの女子高校生でした。受験生だったので家の外で勉強していることも多々ありましたが、私が語学学校を終えたらハイスクールでボランティアをする話をしたら、高校のことをいろいろ教えてくれました。私は家を引っ越すときに彼女の受験祈願として、彼女の名前入りのミサンガを作ってプレゼントしました。弟君はやんちゃだけど心優しい子でした。発達障害があったので、言葉は拙く、私の英語力もまだなかったので、何を伝えようとしているのかを聞き取ることにひと苦労でしたが、家のことをなんでも教えてくれる優しい子でした。
最初はストレスフル、最後は語学以上の財産を得た
晩御飯は毎晩私の分も作ってくれました。私の帰りが遅いときは作って置いておいてくれました。オーストラリアの家庭料理は、基本ワンプレートが多いです。バケットとサラダを机の真ん中に置いて、それぞれのプレートにポテトやパスタ、また肉や魚の日もありました。味付けが合わないとかそういうことはなく、とてもおいしかったです。私以外にもうひとり学生がいました。オーストラリアの大学に通っている外国人の女の子で、日本に興味を持っている子でした。専攻で日本語を取っているため、日本語の課題が出たときには、英語で日本語を教えたりと、手伝ったりしました。とても心優しい子で、一緒に住めてよかったです。家族のお土産は、日本の文房具、シャープペンシルや消えるペン、日本の柄のシールやふせん、速乾のタオル、芯のいらないホッチキスを持っていきました。日本にいるときに家族構成や仕事柄を考えて買いました。特に芯のいらないホッチキスはとても喜ばれました。
家を出る前日、今までの感謝の気持ちをこめて、お好み焼きと手巻き寿司をご馳走しました。そのとき、ホストマザーがたくさん手伝ってくれて本当に助かりました。何かをやりたいと言ったら可能な限り協力してくださる方でした。子どもたちにアレルギーとベジタリアンの子がいたので、そこを考慮して寿司のネタやお好み焼きを作ったら予想以上に喜ばれました。
最初は、片言英語で、言われたこともすべては聞き取れないし、家族の会話に入るのには勇気がいるし、すごくストレスフルでしたが、絶対声をかけてくれるし、相談に乗ってくれるし、私がやりたいことを温かく見守ってくれるシドニーの家族が出来たようでした。初めての海外長期滞在の私にとってはとても心強かったです。そして、家を出るときにも、出てからも「本当に戻ってきてほしい、いつでも戻っておいで」と言ってもらえる家族を持てて嬉しかったです。
【第三章】海外シェア生活
6カ国の人たちとの共同生活
ホームステイが終わって初めて住んだシェアハウスは、Leichhardtというイタリア人街にあるハウスシェアでした。3回のインスペクション(下見)で、いちばん最初の家でした。インスペクションの時もオーナーさんはおっとりした方で、後から質問しても丁寧に答えてくださり、家もきれいだったのでこの家にしました。イタリア人街というだけあって、入居当初は、イタリア人男性4人、インド人男性2人、フランス人女性1人と私の8人マックスのシェアでした。それから出入りがあり、フランス人男性が入り、カナダ人女性が入り、イタリア人男性が入り、イタリア人女性が2人入り、最終的にはイタリア人男性2人、女性2人、フランス人女性1人と私のシェアになりました。
初めてのシェアハウスで緊張していましたが、イタリア人の気さくでフレンドリーな気質があり、すぐに仲良くなりました(うるさいぐらいです笑)。あえて日本人ゼロの環境を選んだせいで、最初はコミュニケーションが大変で、みんなの会話にも入れず、部屋にいるときに外から聞こえるみんなの笑い声を聞くたびに何度も落ち込みました。しかし、頑張ってご飯を作っている人に話かけたり、ルームメイトのフランス人の子と会ったら必ず声をかけたり、ご飯の時に会話をするようにしているうちに、次第に会話に入れるようになりました。そして、フランス人の男の子に、「Natsumi!この家に来た時よりずいぶん話せるようになっているよ!」と言われたときには本当にうれしかったです。オーナーさんも良い方で、頻繁に家を訪問し、いつも近況を聞いてくれ、仕事探しで悩んでいたときも話を聞いてアドバイスをくれました。
勝手に食べるし夜中はうるさい。でもそのうち慣れる。
大変だったのはコミュニケーションだけではありません。シェアハウスをする上で一番大変だったのは、文化の違いです。「日本ではありえない!!」と思うことを彼らは当たり前にします。例えば、私が買ったアイスクリームを勝手に食べて、問いただすと「後で買うから!」と言います(ぜっったいに買いません)。また、夜中2:00でも3:00でも、みんなが寝ていても、ゲームを大声でしてとてもうるさいです。それも、大声と言っても日本人とはレベル違いの大声です。吠える感じです(笑)。大好きなサッカーのゲームを観戦しているときも同じです。パーティーをしてもその場で片付けません。異性をすぐに連れ込みます。慣れるまではとても大変でした。でも、慣れてからは割り切れるようになりました。慣れてきたら面白いものです。強気で当たれるようになるし、頼んでないこともして案外お世話好きだし、ご飯は美味しい物作って味見させてくれます。庭で一緒にワインを飲むのも楽しかったし、ハウスパーティーもクラブに行くのも海に行くのも必ず誘ってくれます。フレンドリーでいつでも話せるから英語も上達しやすかった環境だと思います。(うるさすぎてパーティー禁止になりました笑)そんなこんなでキャラクターの濃いメンバーの中で半年一緒に暮らしました。
2つ目の家は、友だちの紹介でPyrmontにあるアパートの一室でシェアハウスをしました。Pyrmontは、観光地のDarling Harborのすぐ近くで、シティにも近く、とても利便性の高い地域です。ここは、男性はオーストラリア人、エクアドル人、フランス人2人、女性はブラジル人3人と私のシェアハウスでした。そして最終的には、男性がエクアドル人、フランス人2人、女性がブラジル人、フランス人、イタリア人と私のシェアになりました。ここは、私の2つの職場からすごく近く、どちらも徒歩15分~20分ほどで行ける距離でした。前回住んでいた家より国籍がミックスで面白かったです。
ここのフラットメイトは、英語を勉強しているメンバーも多く、フレンドリーでよく夜にみんなリビングで話したり、テレビを見たり、飲みに行ったり、ご飯を作ったり、パーティーも何回もしました。オーストラリア人のフラットメイトは英語を教えてくれたり、エクアドル人の男の子は他愛もない話を夜中にしたり、ブラジル人の子たちも飲みに誘ってくれたり、フランス人男子たちはバルコニーで飲みだすし、でも会ったら必ず声をかけてくれるし、とても愉快な仲間たちでした。
海外生活をマネジメントする力
大変だったことは、前の家と同じで文化の違いもそうですが、掃除当番は本当に大変でした。ブラジル人同士も掃除をした、してない、でもめていましたが、場所をシェアしている分、共有スペースはみんなで分担して掃除しなければなりません。みんなの価値観が違って、最低限のことができていないと、必ず問題になります。その時はブラジル人の女の子同士でつかみ合いのけんかになり、数日かかってみんなで話し合いました。まあ、正直、言い方は悪いかもしれませんが、どの国を見ても、日本人が一番考え方は大人だなと痛感させられることは多々あります。だって、そのつかみ合いをしていたのは、28歳と30代後半の人ですから(笑)。「そんなしょうもないことで」って思っていました(笑)。
そして、このフラットでの思い出は、ハウスパーティーです。ブラジルのフラットメイトのFarewell partyをしたときに、たくさん人が来ることを知らなかったそのブラジル人のフラットメイトが拗ねて主人公の本人が部屋に引きこもってしまったり、うるさすぎてオーナーが来て家から追い出されたり、その後行ったパブでフランス人のフラットメイトが喧嘩になって警察沙汰になったりと、いろんな意味で思い出深いパーティーでした。おそらくシドニー生活で一番楽しかったパーティーです。前の部屋の住人たちとも、私の友達繋がりで仲良くなって、部屋を行き来きしたり、パーティーに呼んでもらったりして、とても良い出会いがありました。
日本人と生活するほど楽なことはありません。お互いタブーが分かっているし、共通の認識があるし、「普通」が同じだからです。でも、あえて日本人ゼロの環境に飛び込んで良かったです。もちろん、大変なことや、合わないことはたくさんありました。でも、お互いの国の食べ物を作りあったり、日本食を振る舞ったり、そうして日本を知ってもらえてすごく嬉しかったです。簡単そうで難しい「ルールを守る、時間を守る」ということが世界に出たらこんなにも難しいことなのかと実感しました。そして、自分で自分の生活をマネージメントする力もついたと思います。
【第四章】語学学校
アウェイの勢いに圧倒される
入学して最初の3週間は、General Englishでした。クラスのメンバーは18人前後で先生は午前中と午後で別でした。クラスメイトはコロンビア人、ブラジル人、チリ人、タイ人、韓国人、、、とたくさんの国の友だちがいました。そしてすごく仲が良く、お昼は毎日4階にあるランチスペースでみんなと一緒に食べていました。初日はすごく緊張しました。でも教室に入った瞬間に「はい、あげる」っておかしを配っている子がいて、とても温かい雰囲気のクラスでした。英語なんてほとんど話したことなかった私は、自信も全くなく、授業中の発言はすごく勇気が必要でした。やっぱり見て取れるのは、外国人は日本人よりも断然積極的に発言します。合っていても間違っていても関係ありません。どんなに小さいことでも質問もバンバンします。その勢いの中に入るのはすごく勇気がいって、最初の一歩がなかなか出ませんでした。
それでも、出発前の事前準備のレッスンを思い出して実践していたことはいくつかあります。一日で質問する回数、席のポジション、クラスに入るタイミング、休憩時間中の使い方などなど。最初は勇気がいることも、慣れてきたらだんだんみんなの方から話しかけてきてくれたり、遊びに誘ってくれたりしました。
語学学校は、ワーホリ1年間で一番「楽」だった
卒業してから実感したことですが、確かに学校に行っている期間にも泣くほど悩んだことはありました。友達ができるか、クラスが上がれるか、英語がちゃんと身に付いているか、無駄な時間になってないか、バイト、お金、、、でも卒業してから感じるのは、語学学校は天国だったなと…。だってみんな目的同じですから。みんな英語を勉強しに来ていて、友だちを作りに来ていて。だから、積極的に話そうとするし、遊びに出かけようとするし、同じような生活の人ばかりです。英語力だって、大体同じような人ばかりです。ただ、社会に出て働き始めたら、オーストラリア人のなかで働いたら、みんなそれぞれの生活がある中で働いています。「同僚」という関係より近づくのは難しかったし、エネルギーも必要でした。General English のクラスには3週間通い、文法、ディスカッション、会話、リスニング、英語の基本的なこと全般をしました。このときのクラスで出会った子は卒業後もずっと仲が良く、オーストラリアを出る最終日まで会うぐらいでした。
多国籍の人が使う「音」から学ぶ
Pronunciation Classは、生徒が9人に先生が2人の少人数クラスでした。生徒は日本、台湾、スペイン、ブラジル、コロンビア、チリから来ている子たちでした。このクラスは、すごく意識の高い子たちが集まっていて、クラスの中では母国語を喋らなかったり、みんな発音を指摘しあいながら普段の会話をしたり、授業で出てきた単語をわざと使って会話していました。みんな仲いい子たちばかりで、箸の使い方を教えたり、みんなでBBQをしたり、休憩時間に音楽を流して踊ったり、最後にもみんなで先生たちにビデオメッセージを作りました。そして、最終日には、もう一つのPronunciation Classと一緒にExcursionに行きました。そして、最後の授業の終わりには、寂しすぎて泣きました(笑)。
Pronunciation Classはすべての発音記号の発音の仕方、実際の文の中での使われ方の他、一文の中でのアクセントのつけ方、文の中の音のつながりなどを練習しました。みんなに小さい冊子が配られ、それをもとに月曜から水曜まで練習し、木曜日には、その週で学んだことが含まれているスクリプトを暗記して先生の前でテスト兼録音があって、そのままフィードバックを貰いました。その録音は毎週メールで届きますので、自分の成長を感じることができます。発音練習もただ単に練習するだけではなく、毎回アクティビティと一緒に練習するし、国ごとに苦手な発音を集中的に練習してもらえました。少人数だからこそ一人ひとりの苦手な部分を矯正してもらい、マンツーマンで教えてもらえました。
机上より現場で使える「手段」を学ぶ
Pronunciation Classの5週間が終わると、Survivor Classが始まりました。このクラスは、先生1人に生徒が8人で、トルコ、タイ、日本、台湾、ラオス、チリから来ていました。とても少人数で、みんな仲が良く、よく授業が終わってからも教室に残って勉強会をしていました。私は結局行けませんでしたが、女子で旅行もしていました。私が留学中病んだランキング1位の「お金尽きてローカルジョブ探す事件」の時に助けてくれたのもこのクラスの子たちでした。先生はボルダリングが趣味で、よく生徒を連れて行ってくれていたので、クラスのみんなと行っていました。先生は、生徒思いで面白く、細かいことは気にせず生徒のやりたいようにやらせてくれる、生徒の背中を押してくれる先生でした。先生の「Just Do It」という言葉はこの後卒業してからもずっと私の背中を押してくれました。先生とは家も近く、Survivor Classが終わってからも会うたびに気にかけてくれ、ボルダリングや先生主催イベントや家のパーティーにも誘ってもらえました。
授業は、週ごとにテーマがあって、最初の週は「街頭インタビュー」がテーマで始まった初日の午後には「はい、インタビューしてみよう」って言われていきなり外に出されたり、自分の故郷についてのプレゼンテーションを作ったり、最後の週には学内イベントを作ることがテーマでした。そのイベントでは、1週間かけてイベントを作るのですが、これまで学んだことを生かしながらみんなでトリビアの泉のイベントを作りました。当日までに、各クラスに行って宣伝、ポスター作りなど、することはたくさんでした。当日は、みんな担当の問題を観客の前で読み上げ、5週間の成果を発表という形でした。
私を見捨てなかった先生
一番大変だったことは、みんなの意識の高さがバラバラだったことです。先ほども話したように、授業が終わってからも残って勉強している人もいれば、学校になかなか来ない人もいて、最後の話し合いが大変でした。また、個人的なことですが、授業の中で発音をすることがあるのですが、自分が発音の授業(Pronunciation Class)を取っていたにも関わらず、分からないことがありました。また、先生の話すスピードが速すぎて聞き取れなくて、最初は質問してもその答えが聞き取れないことが多々ありました。その時に、「自分のあの5週間は何だったのか、無駄なものではなかったか、自分は時間だけかけていてちゃんと身に付いているのか、このままで大丈夫なのか」と心配に襲われることがありました。
そんな時に話を聞いてもらったのがPronunciation Classの先生です。先生は2人いて、Sarahには何回も相談して、たくさん話を聞いてもらいました。毎回泣きながら話をする私の話を最後まで聞いてくれました。そして、Dylanには、発音のことを相談したら、「じゃあ、文章をノートに書いて発音記号を書いて、毎日僕にもっておいで。僕が添削するから。」と言ってくれました。それから、私はノートを2冊買って毎日先生と交換で1日も欠かさず続けました。そのおかげで自分の英語にも少しは自身がついたと思います。自分の仕事でもないのに毎日私のノートを見てもらって本当に救われました。私を見捨てなかった2人の先生に感謝してもしきれません。
一番役に立ったコース
Survivor Classに行ったら、General Englishに戻れません。主に外に出る、喋ることがメインのクラスで、もともといたGeneral Englishより何倍も面白かったです。このときの壁は、英語力とか文法力とかではありません。いかに勇気を出してみんなの前で喋れるようになるか、一歩を踏み出すか、そのための手段を教えてもらったクラスでした。正直、卒業後働いたり、他のことに挑戦したりし始めて一番役に立ったクラスはこれでした。
【第六章】海外日本語教育ボランティア
現地ハイスクールで「先生という立場」での交流
日本語教育ボランティアは1か月間ありました。始まる前は、高校生は話すのも速いし、若者言葉もあるし、ませているし、教壇の上で英語をちゃんと話せるか、私なんか相手にしてもらえるかなど心配事を挙げたらキリがありませんでした。
1月の終わりからボランティアが始まりました。私の場合、初日が新学期の開始日だったので、始業式から始まりました。受付で先生と会って、そのままついて行きました。外でちょうど2か月間ほどの夏休みを終えた生徒に時間割が配られ、体育館で始業式が始まりました。そのままクラスに行き、始業式初日から授業がありました。学期はじめのクラスであったということもあり、先生もみんなもバタバタしていたので、初日は先生からみんなに紹介がある程度でした。次の日から本格的に授業が始まりました。
私にしかできないことに挑戦
私の場合、オーストラリア出身の先生、香港出身の先生と2人いて、クラスはビギナーとコンティニューズの11年生と12年生の4クラスありました。クラスがあるときは先生と一緒に前に立って、音読のお手本をしたり、ひらがなを勉強しているクラスは前にお手本を書いたり、回りながらアドバイスしたり、課題の質問があったらそれに答えたりしました。
例えば日本文化について教科書で勉強しているときは、その単語の説明をしたりしました。クラス以外では、ひらがなや漢字のテストを作ったり、採点や添削をしたり、先生のお手伝いをしました。
そして、私は個人的に自分にしかできないことをしたかったので、先生とも相談しながらお願いをして、クラス内に時間を取ってもらって、2週目にはバレンタインの日本のお菓子をみんなに持ってきて「バレンタインデー」と「ホワイトデー」の説明をし、3週目には日本の豆菓子を持ってきて「ひな祭り」の説明をしました。そして最後の週には、日本語のレベルごとに日本語を使えるゲームを考えて、授業中にしました。最終日には、生徒約50人全員にミサンガと手紙を送りました。
あっという間の4週間
4週間は一瞬で終わってしまいました。1週目はすごく緊張していたのですが、ませているというよりはノリのいい生徒たちばかりで、授業後に話に来てくれたり、質問に来てくれたりして、すぐに打ち解けていきました。先生も、生徒から質問が来たら私に振ってくれたり、日本のことを説明させてくれたりと、私をクラスに入れるようにと工夫してくれました。
2週目、3週目、4週目、と飛ぶように時間は過ぎていきました。自分のテストを授業中に使ってもらえたり、「次のテストはNatsumiさんが作ったテストだからね~」と先生が生徒に呼びかけたりしているのを聞いて、嬉しくなりました。日にちが経つにつれ、自分も生徒の役に立ちたいという気持ちが強くなりました。
日中はハイスクールで教え、夕方からはレストランで働く
バレンタインやひな祭りの文化を伝えるときには、頑張って考えたし、テストも作ったし、前でネイティブの子たちに対して英語で説明するのは大変だったし、レストランで働きながらだったので朝早い学校の生活スタイルはハードだったし、大変だったことはきっとたくさんあるのですが、生徒たちのことが好きだったのでちっとも苦になりませんでした。とにかくみんなの笑顔を見るのが大好きでした。みんなの「できた」「わかった」が聞けるなら、何でもできる気がしました。
コミュニケーションは言語だけにあらず
3月の終わりに家族が私に会いにシドニーに来た時、学校の生徒たちと先生と一緒にBBQをしました。みんな何かしら持ち寄りをして、私も家族とお好み焼き、ポテトサラダ、おにぎりを作って持っていきました。生徒の中には日本語があまり得意じゃない子たちもいたし、私の弟たちも母も英語は喋れませんでしたが、お互い頑張って相手の言語を話そうとして何とか意思疎通を図っていました。BBQをしたり、おしゃべりしたり、散歩したり、サッカーしたり、弟たちも生徒たちも楽しそうで良かったです。言語が分からなくても通じあっている姿を見て、コミュニケーションは言語だけじゃないなと思いました。
【第七章】海外インターンシップ
日本のインターンシップとは違う!待っていても仕事はもらえない
クルーズ会社でのインターンシップは2週間ありました。初日はオリエンテーションだけと聞いていたのですが、さすがオーストラリア!そんなこと聞いてなかったかのように初日からバリバリ働きました(笑)。オリエンテーションはマネージャーから話があって、会議室のような部屋でキャプテン希望の男の子とJinという韓国人の同期の女の子と3人で、会社の説明や、ホスピタリティについての話を聞きました。その後、フェリーを歩きながら船内の説明があって、さっそくインターンシップ開始でした。
インターンシップの内容は、主にランチタイムのビュッフェのウェイトレスでした。初日にオーダーのとり方も教えてもらい、最初の週は食器下げ、ドリンク運びから始まりました。2週目に入ると、インターン生でなかなかすることはないみたいなのですが、自分のセクションを持たせてもらい、ランチのコースのマネージメントの仕方も教えてもらえました。スーパーバイザーや長年働いている子たちは、インターン生の扱いは慣れているみたいで、分かりやすく教えてもらえましたが、日本と違って分かっているか分かっていないか向こうから確認されることもないし、待っていても仕事は来ません。自分から仕事を探して、することがないかどんどん聞かなければなりませんでした。慣れていることはいいこともありますが、「Welcome」感はあまりなく、時々心細い気持ちになり、お荷物なのかなあと感じることは多々ありました。自分がすでにローカルレストランで働いていたので、ローカルの雰囲気を知っていたから比べてしまっていたのかもしれません。
また、自分がぶつかった壁のひとつに、他国の人の英語のアクセントもありました。私が働いているもうひとつのレストランは、オーストラリア人かヨーロッパ人ばかりだったので、オーストラリア人のアクセントは難しいですが、フレンチアクセントや、ドイツ、イタリアのアクセントに少しは慣れてきていました。しかし、ここで働いている人たちは、ネパール、フィリピン等出身の人が多くそのアクセントになれるまではだいぶ時間がかかりました。
ぶつかる壁は既に経験済み!
またさらに、このときの私の生活スタイルは、朝11時から夕方5時までインターンシップ、夕方6時から10時か11時まで他のレストランで働いていたので、この生活リズムのハードさと、新しい環境での気疲れでだいぶ体力面でもきつかったです(笑)。ただ、そんな中でも、他のローカルで最初に働いていたからすべて英語の実力主義の「ローカル」という環境には少しは慣れていて、初めてその環境に飛び込むときにぶつかる壁にはすでにぶつかっていたので、その点では、初めて飛び込むよりは入りやすかったです。また、「レストランで前に働いていた?」と聞かれ「うん!」と答えると「見たらわかるわ」と言われたときにはとても嬉しかったです。そして、先ほども話したように、認めてもらえてセクションをもらえたり、コースを教えてもらえたり、インターンシップ中にも関わらずお客さんから直接「ありがとう」と言われ、チップをもらった時にはとてもやりがいを感じました。
インターンシップ修了後に有給交渉
インターンシップをしたからと言って仕事を必ずもらえるわけではありません。それは私の経験で実感したし、私が働いているときにもインターンシップをしたのに仕事をもらえない人も見てきました。
私の場合、インターンシップが終わってすぐにマネージャーのところに行き、いつジョブインタビューしてもらえるか聞き、レジュメの他にカバーレターも作って行きました。ジョブインタビューでは、インターンシップで学んだこと、どうして働きたいか、どれくらい入れるか等を聞かれましたが、結果はダメでした。理由は、私はほかにも経験があるよという意味で同じBarangarooでレストランのウェイトレスをしていることを話しましたが、それが逆に「忙しくなる時期は同じだし、君は両立できないだろう」「向こうのレストランが忙しい時は、こちらも忙しい」ということで雇ってもらえませんでした。
あきらめず、一歩も引かず、交渉を続ける
私は何度も「自分で調節できます」と言いましたが、ずっと「うーん」という感じでした。それでも、どうしても諦めたくなくて、一歩も引かず、「自分で両立できる」ということを言い張りました。すると、彼の方が根負けして、「じゃあ、みんなのような決まったシフトをあげることはできないけど、必要な時に連絡するよ。ただし、1週間に何回あげられるか分からないし、連絡は前日や当日になるかもしれないよ。」という条件の元で雇ってもらえることになりました。私は「それでもいいから」と食らいつく思いでお願いし、やっと仕事をゲットしました。
職場をゲットしても仕事がゲットできるわけではない
通常は、みんな2週間ごとにシフトをもらうのですが、私はそれで空きが出たときや人数が足りない時だけ連絡をもらえることになりました。それでも働けるのは週に1日や2日で、一度も働けない週もありました。私は毎週「この日が開いています」と連絡をし、毎日今日の空きがないか確認しました。そうこうするうちに数週間後、彼から「Natsumi~君のシフトが出来たよ」と言われ、やっと私のシフトができ、みんなと同じように働けるようになりました。その時は、やっと認めてもらえた、という思いと、諦めずに頑張ってよかった、という思いで、本当に嬉しかったです。
一人のお客様から$150のチップ!
本格的に働き始めて、最初は3回ほどディナーの研修があります。私は夜に他のレストランで働いていたので、基本的にはランチタイムや、ディナーでも簡単なコース、また小さいほうの船を担当することが多かったです。
一番大きな船は3階建ての1フロア300人ほど入るとても大きな船です。ほかにもお客さんが少ない時やチャーター等で使われる小さな船がいくつかありました。私は個人的には、人数も少なく比較的自由にできる小さい船で働く方が好きでした(笑)。1日の流れは、ランチ(ビュッフェ)、ランチとディナーの間にティータイムのクルージング、そして、夕方のクルージング、と夜のディナークルージングがあります。業務内容は、準備、片付け、掃除と全部ですが、特に自分のセクションでは、ドリンクオーダーにフードオーダー、基本的にコースなので、アントレ、メイン、デザート別にオーダーを取ります。クルージングの時間内にお客様には食事を終えてもらわなければならないので、時間配分、料理を出すタイミングも考えなければなりません。最初は難しいですが、慣れてきたらコツをつかめます。お給料は人によって違うみたいですが、私は時給26ドルもらっていました。そして、チップは自分のセクションのものは自分で全てもらえます。後は、ボトルを売ったら5ドルというのも、私が働いていた時にはありました。私は最高で、一晩で1人のお客様から150ドルのチップをいただきました。これはオーストラリア生活最高金額で自分でも本当に驚きました(笑)。
お客様に「ありがとう」と言われ、笑顔を誉められたときは本当にうれしかったです。そして、同僚はいい人ばかりで、よくご飯や飲み、クラブ行ったり、お別れ会等もしたりととても仲良かったです。今でもずっと連絡を取っています。自分のお別れ会にもたくさんの人が来てくれました。日本人も、私がいたときに働いていた時には意識が高い人が多く、仕事中は基本的に私にとの会話でも英語を使っていました。
クレームが重なり精神状態は崩壊寸前
ただ、大変だったこともたくさんあります。初めてすることなので、自分のセクションをすべて自分の英語でこなすことは難しかったです。VIVIDという光の祭典が5月から6月にかけてDarling HarborとCircular Quayであるのですが、船の中からこの祭典やライトアップされたオペラハウスを見ることができるので、この時期のお客さんは断然多くなります。そんな時に、いつもより難しいディナーコースを初めて任された日がありました。コースによって選べるものなどが違うのですが、いきなりそれをしろと言われた私は戸惑っていました。私は5テーブル持っていたのですが、私の説明を勘違いする女性グループがあったり、英語がほとんど話せないグループがあったり、「今日は本当に大切な日だからよろしく」と最初に20ドルのチップを私に渡し、プレッシャーをかけてくる家族がいたりと、頭の中はパンク状態でした。
私も完璧じゃないのにそんな状況で、クレームをたくさん受け、精神状態は崩壊寸前でした。最初の女性グループは違う方法でオーダーされたのでこちらが説明していると、「こんなに最低なクルージングは初めて」と言われるし、他からもグループのオーダー中に話かけてきたりして、パニックになるし、そんなこんなで対応していると、最後にいたファミリーに「本当に遅い」「最初にあなたにチップ渡したでしょ?」とさんざんクレームを言われ、私は半泣きでした。それを見かねたスーパーバイザーが声をかけてくれ、パニック状態のまま状況を説明していると、涙があふれて止まりませんでした。「1回裏で深呼吸しておいで、僕がfixしてくるから」と言ってくれ、キッチンメンバーにも、同僚にも大丈夫だよ、気にしないでと言われ、悔しくて、辛くて、情けなくて、涙が止まりませんでした。
頑張って気持ちを切り替えて、他のお客様に迷惑をかけてはならないと思い、お客様の前に立ちました。その後も、ファミリーからは、「どうしてくれるの」と責められ、精神的に崩壊したクルージングでした。自分の実力のなさを痛感させられました。しかし、助け舟を出してくれたスーパーバイザーや、たくさん声をかけて支えてくれた同僚のありがたさを感じました。
日本の常識なんか通用しません
また、シフトについてはだいぶ悩みました。雇用形式が「カジュアル」ということもあり、シフトは簡単にキャンセルされるのです。こんなことは日本ではあまり考えられませんが、オーストラリアはカジュアルの雇用でなくてもお客さんの十分な来店が見込まれなかったら当日数時間前であっても、シフトをキャンセルされます。日本だったらシフトを作った店長の責任なので、少なくとも働かせてもらえるのですがね…。これはだいぶ自分のスケジュールが狂います。
自分はシフトが入ると思って予定を空けていたり、他の仕事や用事をキャンセルしたりしているのに。特にここはひどかったです。当日の数時間前ならまだしも、私の場合はフェリーに乗ってから自分のポジションを確認していると「あれ?Natsumi、今日入ってないよ?」って言われて事務所に確認したところ、私に連絡もなくキャンセルされていたことは多々ありました。しかも、日本なら向こうのミスなら働かせてくれるのが普通常識なのに、「ごめんね~今日はゆっくり休んで。次はないように気を付けるね。」で終わりです。最後のほうは、信頼もしてなかったけど、もう諦めかけていました(笑)。これがオーストラリアの緩さなのかなと度々感じました。このシフトに振り回されることは、スケジュールを常に確実にしたい私には大変なことでした。
世界からの旅行者の一瞬を「おもてなし」
マネージャーだけは大変な方でしたが、同僚にもスーパーバイザーにも経験にも恵まれた仕事場でした。もちろん、楽しいことも、自分のためになったこともたくさんあります。自分でひとつ150ドルもするディナーなんてなかなかオーガナイズする機会はありません。自分の工夫次第でお客さまをハッピーにできることはとても幸せなことです。VIVIDのクルージングの時に、自分のセクションに香港から来た1歳の誕生日を迎える女の子を連れた家族がいました。ケーキのろうそくに火をつけたいからライターを貸してほしいと頼まれたのですが、私はせっかくだからと思ってみんなで歌いながらケーキを持ってくることを提案しました。すると、私たちだけでなく、周りのお客さま、そしてそのフロア全員のお客さまが一緒に歌ってくれ、誕生日のご家族はとても喜んでいました。自分の小さな提案がこのようなことに繋がってとても嬉しかったです。このように、自分の行動次第でお客さまの船上の時間を素敵なものにできるのは本当に嬉しかったです。
【第八章】ジョブハント
大変な思いが続いた日本食レストラン
私の場合、シドニーに着いて1か月後に仕事探しを始め、1か月半後にRSA(Responsible Service of Alcohol)を取りに行きました。本当は最初からローカルレストランで働きたかったのですが、現実的に金銭的に危機であること、自分に十分な英語力がなかったことから一時的と思い日本食レストランを探しました。日本食レストランはある程度の英語力があれば合格するので、1週間ほどでサイトで見つけたレストランに決まりました。私が働いたレストランでは、ほとんど日本人で数人タイ人、ブラジル人、韓国人がいました。キッチン内で日本人と話す時はほとんど日本語で、ホールでお客様と話す時はほとんど英語でした。ちなみに、時給は$15でした。バイトの同僚や先輩は良い方ばかりで、この海外で初めて働いたレストランで基本的な接客方法を教わりました。また、シドニーに住んで長い方や、違うビザで滞在されている方もいたので、話していてすごく勉強になりました。大変だったことは、社員さんがすごく厳しい方で、柔軟な方でなかったこと(これも原因のひとつで後に辞めちゃいました…)、2か月間敬語とか上下関係なんてなかった生活だったので、「THE日本」という世界にすごく気を遣ってしまったことです。なんだかんだ大変な思いをした方が多かったジャパレスですが、経験が重視される次のローカルレストラン探しでは、ここで働いた経験が活きてきたので、働いてよかったです。。
ワーホリでローカルの仕事をゲットする難易度
12月頭、自分の残りの残金が$10になってしまい、3食リンゴ生活をしていました(リンゴは1キロ200円程度で一番安かったんです)。これは仕事を探すしかないと思い、またジャパレスのダブルワークは嫌だと思い、ローカルレストランを死ぬ気で探すことを決意・覚悟しました。日本食レストランをゲットするのとローカルレストランをゲットすることの難しさは天と地の差があります。ローカルレストランをゲットするには、まずレジュメをパスし、その後ジョブインタビュー(面接)、トライアル(実践テスト)をパスしたら合格です。もちろん全て英語です。レジュメは自分で一から作ります。私は友達やネットに載っているテンプレートを参考にしながら作りました。ジョブインタビューは、レジュメを配ったときにその場で行われることが多いです。トライアルは、さすがは実力主義の国、いきなりホールにポンと入れられて、テーブル番号を教えてもらったら後は「やってみて」です。自分のセクションを任せられることもあります。仕事をゲットするのは日本に比べてとてもとても長い道のりです。
海外は天国じゃない、ワーホリはあまくない
まず、日本食レストランと同じようにサイトで調べてみて、メールにレジュメを添付して送りましたが、100件送って返ってくるのは5件ほど。さらにそれに返信すると返ってくるものなんてありません。それに、カフェ文化の根付いているオーストラリアでは、募集中の飲食店の半分以上はカフェなので、レストランを探すだけでも苦労です。私のレジュメには目を引くような英語力もなければ、経験もありません。こんなレジュメで勝負できないと思った私は、直接レジュメを配って回り、私の取柄であるパッションをマネージャーに見せないと!と思い、思いつく限りの場所を配って回りました。電車でもなんでも足を運べる範囲の場所は全て行きました。
正直、仕事探し期間はすごく病んでいて、返事が来るか分からない相手にレジュメを送り続けること、自分の能力がなくて「No」と言われること、自分の勇気が出ないこと、最後の一歩が出ないこと、自分の弱さ、小ささを痛感したし、図太さや図々しさが本当に必要だと感じました。何度も諦めようと思ったし、自分みたいな人間は特別でもないし何の能力ないことを思い知ったし、現実は甘くないことに身をもって感じました。そんな時、学校ですごく尊敬していて、もうすでにローカルレストランで働いている友達が一緒にレジュメ配りについてきてくれました。しかも、毎回レストランに配り終える度にアドバイスをくれ、仕事探しの期間ずっと気にかけてくれて、本当に助けられました。
一番難しかったこと
「嘘をつくこと」これは私が一番難しかったことで、ずっと悩んでいました。みんな言いますが、海外での仕事探しは嘘をつかないといけません(必ずではないですが)。私はずっと嘘をつけず、しかも、嘘をつくことに罪悪感がありました。しかし、嘘をつくということは、決して繕うだけでなく、それなりの責任も伴う覚悟とそれを成し遂げる自信もないといけないことに気づきました。
例えば、面接で「3枚プレート持てる?」と聞かれ、持ったことのない私は「持ったことはありませんがトライします。」と答えました。それで1つ落とされました。あの時、「持てる」と答えるべきだったと後悔しました。「持てる」と答えたからには、次のトライアルまでに持てるようになっておかなければなりません。自分もそれなりの努力をしなければなりません。
成長と共にチャンスも現れる
私と友達はDarling HarborからBarangarooに向けてすべての店舗にレジュメを配りました。なかなかトライアルがゲットできないまま、レストランはいくつか残っているのに手持ちのレジュメが残り1枚になりました。私はここで自分の成長を少し実感しました。というのも、1か月半前にひとつ目の仕事を探すために初めてのレジュメ配りを1人でしたとき、1時間も2時間もレジュメ片手に回ったのに1枚も渡せませんでした。それは、受け取ってくれなかったのではなく、店員さんに声をかける勇気がなかったからで、1枚も減らなかったレジュメの束を片手に情けなく、つらく、虚しくなって、目から涙が溢れWorld Squareと呼ばれるショッピングモールの地下で友達に電話をしながらわんわん泣いていました。
自分でもなぜ渡せなかったのか分からず、おそらく話しかける勇気がない、勝手に自己否定してしまっていたのだと思います。ですので、20枚以上のレジュメを自分ひとりの力で渡し終えそうだったあの時は、小さな成長を感じました。最後の1枚になったとき、友だちに「Natsumiの好きなところに渡してきな」と言われ、適当な勘で渡しに行ったところが運命を変える職場になりました。
私が初めて雇用された「日本人」だった
レストランに入ると東南アジア系の男性スタッフがいたので、レジュメを渡すと、ビザの種類や機関、経験、RSAなどのジョブインタビューがあり、「じゃあ次の金曜日トライアルね」とその場でトライアルをゲットしました。私はうれしさのあまり頭が真っ白になり、泣きそうでした。すると、友だちの返事2つ目は、「メニュー全部覚えようね」でした。そのおかげで浮かれずに済みました。そして、その友達に3枚プレートの持ち方も教えてもらい、たくさん練習しました。
トライアル当日、人生でこんなにも緊張したことがあるかというぐらい緊張しました。着いたらロッカーの案内の次には席ナンバーを覚える。その日はランナーというひたすら料理やドリンクをお客さんには運ぶポジションをしました。トライアルは2、3時間だったと思いますが、緊張しすぎてほとんどなにも覚えていません(笑)。とにかく今あるすべてのパワーと英語を駆使して全力を尽くしました。
そしてトライアルが終わって5日後、2、3日で結果を連絡すると言われていたのですが、連絡が来ず心配だったので連絡をしました。「あなたにお願いしたい」という返事を見たときには、嬉しさのあまり泣きそうでした。
あきらめなければ「夢」は叶う
実は、シドニーに来て3回目の純子さんとの打ち合わせがDarling Harborという観光地にあるカフェでした。そこで純子さんに「ここで働いている人もみんなワーホリなのよ。こういうとこでワーホリでも働けるんだからね。」と言われ、すごく驚いた私はいつか絶対こんなところで働いてやると心に決めていました。
このレストランはBarangarooというDarling Harborと同じ並びにあるのでとても嬉しかったです。神様は見てくれているんだと思いました。
【第九章】その他海外生活
真夏のクリスマス、ビーチでBBQ
オーストラリアのクリスマスは夏です。何週間か前から友達と2人で一緒にクリスマスイヴにビーチでBBQをする計画を立てていました。Facebookでイベントページを作って友達を招待したり、サンタクロースの帽子を準備したり、材料の買い出しをしたり。当日はなんと30人ほど友達が集まりました! 当日はみんな水着にサンタクロースの帽子をかぶってCoogeeビーチでバーベキュー!朝から近くのWoolworthで買い出しして、それぞれドリンクやスナックも持ち寄り。オーストラリアらしいクリスマスでした。オーストラリアでやりたいことリスト5に入っていることがめちゃめちゃ楽しかったです!!!
クリスマスパーティー!
12月24日の夜は、チリの友だちにご招待をいただき、チリ風クリスマスパーティーでした。チリの伝統料理を振る舞ってもらい、ラテンミュージックをガンガンにかけて夜中までみんなで踊りました。少し遅れて友達の家に着くともうほとんど料理ができていました。みんな揃ってからご飯を食べて、オーストラリア伝統のクリスマスのおもちゃをあけました。チリの伝統料理、とても美味しかったです。ラテン人らしい、あたたかーい雰囲気のパーティーでした。その友達からもクリスマスプレゼントをもらいました。その子たちは学校終わってもずっと仲のいい子たちです。
クリスマス当日は、イタリア人の元フラットメイトにご招待いただき、フラットメイトたちとハウスパーティーに行きました。その元フラットメイトはイタリアのシェフで、たくさんの手料理を振る舞ってくれました。私のフラットメイトはほとんどがイタリア人なのですが、朝も何時に起きてくるかわからないし、起きてきたと思ったらみんな順にシャワーを浴び始めて、終わって集合時間になってものんきにタバコを吸っていてほんとにルーズで大変です(笑)。ようやく準備が終わり、遅れてUberでハウスパーティーに向かいました。ヨーロッパ人たちはお酒も飲みまくってテンションマックスです。そんな中でもアジア人ひとりなのに分け隔てなく接してくれてうれしかったです。でも英語力が足りな過ぎてすごくつらかったのはここだけの話。おそらく、シドニーに来て3か月、初めて心の底から英語力の足りなさを実感させられた時でした。その後、みんなでUberに乗ってLittle Bayに行きました。本当はパブリックホリデーなのでイベントはないはずなのですが、誰かが勝手にはじめたパーティーがあっていました。(多分ダメです笑)テントの下にDJがいて、みんなお酒やらなんやら持って来て、踊りました。ハラハラしたけどめちゃめちゃ楽しかったです。みんなほとんど頭おかしかったと思います(笑)。そのあと案の定警察が来て、みんな一斉に逃げていきました。それから乗ったバスもほぼボイコット状態で、酔った人たちの大合唱状態でした。すごくハラハラドキドキしたクリスマス当日だったけど、フラットメイトのイタリア人たちについて行かなかったら経験できなかったヨーロッパ人らしいクレイジーなクリスマスパーティーで楽しかったです。
バックパッカー
最初は、ケアンズとメルボルンに旅行に行くつもりでした。今までずっと働いてきたので、最後にオーストラリアを旅行したいのと、ケアンズに親友がいたので、オーストラリアを出る前に会いたいと思っていました。純子さんに「こういう風に考えてるんですよ~」と相談したところ、「バックパッカーで旅行したら?バスで上がってみるとか」とアドバイスをもらいました。正直、バックパッカーをしている人はシドニーに住んでいた時にたくさん見ていましたが、今まで考えたことないし、別世界のような感じがして、あまり自分がしているイメージがつかず、それを自分ひとりでするのかと考えると心配の方が大きく、どうしようかなと思っていました。でも、せっかく10か月頑張ってきたなら、みんなと同じことはしたくないなと思い、挑戦することにしました。それからは、「Greyhound」のバスでシドニーからケアンズまで上ることを決めていたので、バスの出発時間を決めたり、友だちからたくさんのアドバイスを集めたり、チャイナタウンのマーケットにバックパックを買いに行きました。仕事のラストスパートをかけながらだったので、最後の最後まで忙しいシドニー生活でした。
【第十章】ニューヨークでの活動
挑戦ばかりのNew York
ニューヨークに到着し数日後にすぐDragonさんに初めてお会いしました。写真で拝見していたドラゴンさんはとても厳しそうな方に見えていて実は緊張していましたが、待ち合わせ場所にいらっしゃったDragonさんはとても穏やかな方で最初は人違いかと思っていました(笑)。
ニューヨークでのビジネス活動は非常に貴重な経験であり、同時にきつく、有意義で、私にとって挑戦的なものでした。まず「何がしたい?」という質問から始まりました。前例がなく真っ白のパレットにポンっと投げられ私は右も左も分からない状態でしたが、Dragonさんからご自身の事業について紹介があり、「何でもしていいよ」と言われました。私は自分の能力も経験もなく何ができるのか分からなかった為、提案していただいたことすべて(下記3つ)に挑戦しようと決めていました。
①NY最大級街フェスの計画・集客・マーケティング・イベント開催
②イベントやレストラン等の集客・マーケティング
③各種イベント参加、新しいMeet Upを作る
1週間でキャパを超えた...
いざ始めてみると、新しいことばかりで自分のキャパシティーが分からずニューヨークに着いて一週間で体調を崩し倒れてしまうこともありました。しかし、常に先に道が作られていることはありませんでしたが、「やってみたい」と言ったことには全て「やってみな!」と二つ返事を下さり、自分で突き進んで行く道は全力でアドバイスくださいました。
再びゼロからのスタート
イベント事業でも新しく立ち上げていたプロジェクトに参加し、夜中にレストランの床に大きな紙を広げ黒塗りしたり、週に何日も早起きして朝のMeetUpを作り参加したり、また毎日のようにレストランに通い現地のスタッフとコミュニケーションをとって集客マーケティングを行いました。私より以前に挑戦した人がまだいなかったこと、また知り合いがゼロからのスタートだった為、精神的にも肉体的にも(人生初の時差ボケも一週間続きました)きつい中、毎日が自分の役割を見つけ、存在意義を見つけ、仕事、友人を見つけ、、、の繰り返しでした。ここにいていいのか、邪魔になっていないかと悩んだ日もありました。
毎日本当に怒涛のように過ぎ、正直精いっぱいでした。ただいつもDragonさんはじめ現地スタッフの方々はいつも気にかけてくださり、右も左も分からないニューヨークの中で人の温かみを感じました。レストランで常連のお客様ができ、私が作ったMeetUpがきっかけで日本語の勉強を再開し、社会人でありながら日本語専攻の大学院に進学を決めたニューヨーカーの友人との出会いがあり、二回ともフェスのボランティアに参加してくれた友人から「一回目はめっちゃ緊張していたけど、ナツミがいたから二回目も参加したよ」と言ってくれ、このような小さな出会いや出来事のおかげで乗り越えることができました。
みんな必死に生きている
「New Yorkの人は冷たい。」こんな偏見を持っていた冷たい人間は私でした。そしてこの偏見が違うって気づいたのも、そしてこんな偏見を持っていたのを後悔したのもニューヨークを発つ前日でした。 心許せる友人がいたオーストラリアを離れ、ニューヨークに着いた瞬間は緊張でいっぱいでした。私のフラットは、アメリカ人3人、コロンビア人1人、と私です。皆学校や仕事に忙しく、全員の顔を見たのは入居して1週間経ってからで、それぞれ夢を追いかけてニューヨークに来たわけで非常に忙しく、皆で食事を共にする事はその頃までほとんどありませんでした。そんなこともあり「New Yorkの人は冷たい」と思って生活していました。しかし、ある日コロンビア人の友人とキッチンで話すようになり「忙しくてなかなかニューヨークを紹介できずごめんね」と言われ、初めて心冷たいのではなく皆それぞれ必死に生きているということに気づきました。
New Yorkは「人」がおもしろい
それから、私はその友人がトレーナーをしているヨガに参加し、一緒にカフェに行き、日本食も作りました。話を聞くと以前はコロンビア代表のテニスプレーヤーで現在はUS Openで働くスタッフ。他のアメリカ人のフラットメイトも弁護士になるために法科大学院生、アートデザイナー、バスケコーチ。それぞれ夢を持っていてキラキラして見えました。その後家の一階に住む家族と合同BBQ、夜な夜なワインを飲みながら映画を鑑賞、フラットメイトの誕生日パーティー、サルサパーティー、、、コロンビアの友人からは大坂なおみ選手のUS Openの試合にも招待してもらいました。それぞれが忙しいながらもリビングに集まった時には、将来の夢、ニューヨークでの生活、恋愛相談もたくさんしました。
そして私のニューヨーク最終日前夜私の友人とフラットメイトが集まってくれて家でフェアウェルパーティーをしてくれました。私は涙が止まりませんでした。なぜこの瞬間に涙が溢れてきたのかは分かりませんが、こんなにもこの人たちの温かさを感じていて、頼りにしていて必要しているんだと実感しました。ニューヨークに着いて初めて心許し、心に張っていた糸がプツっと切れた瞬間だと思います。「New Yorkの人は冷たいと思っていた。」と伝えると、彼女らは「分かる。私たちもそう思っていたわ」と。冷たいのではなく、この厳しい街で各々自己防衛をしなければいけない、けれど内に秘めた夢は熱く、想いは温かいものだと思います。今でもニューヨークの思い出を思い出す時に一番に思い出すのは「人」です。
【最終章】REBORN projectを修了、日本へ帰国後
帰国後の内定企業について
帰国後は就職活動を行い、大手電機メーカー、大手航空会社、大手飲料メーカー、大手食品メーカーなど4~5社から内定をいただきました。
就職活動で強みになったREBORN projectの経験談
第一希望の航空業界の就職活動では、シドニーでの就業経験についてよく話しました。特に、クルーズ会社での経験をたくさん話しました。エアラインは、協調性、国際性、接客経験をみられていたため、クルーズ会社は最適な環境でした。世界中からお客様がいらっしゃる現場、セクションごとに分かれてグローバル環境下のチームワークで接客する点、ひとりで保安要員もサービス要員もどちらも兼ねている点などが似ています。保安要員など、機内と同じような環境で働いていたという経験が生かすことができました。そういった経験で自分が気をつけたことなどを話すと、評価をいただいて反応がとてもよかったのを覚えています。
いろいろなお国柄のお客様に合わせた接客をしていたエピソードを具体的に話しました。たとえば、中国からのお客様は白湯を飲まれることが多いため、自ら出したり、サウスアメリカ系のお客様は、リアクションが大きくフレンドリーな方が多いので、頼まれる前に写真を撮りに行って会話をするなど。また、機内のように、クルーズ船においても、セクションに分かれて仕事をするため、セクション同士のコミュニケーションやチームワークについても話しました。
例えば、セクションごとにタイミングを合わせてデザートを出す工夫などをしていたことにも言及しました。実際、あちらのテーブルには出ているのに、どうしてうちはまだなの?といったクレームも出たことがあったため、それへの対応策、解決策などを工夫したという話は役に立ちました。クルーズ船での経験は、エアラインに直結するものが多かったです。
エピソードを話した後の面接官の反応
面接官の方が興味をもたれた話はかなり深掘りされました。こういうときはどうだったの?こういうときはどう感じたの?こういうときはどう工夫したの?ということをよく聞かれるため、クルーズ船の話は深掘りされることがとても多かったです。最初の1分間の自己紹介の時間に、自分の経験を簡潔に伝えたのですが、そのときに一番深掘りされたのが、クルーズ船の話でした。
面接対策としては、航空会社が興味を持つような形でREBORNワーホリでの経験の話を用意していきました。エアラインは接客がメインなので、接客のエピソードで固めて準備することを意識しました。
また、英語での質問もありました。それに答えられることは前提といったような形でした。ですが、みられていたことが話している雰囲気なのか、答えの内容だったのかということまではわかりません。とにかく、英語はもちろん話せた方が有利だと思います。
他の就活生と差別化できた
REBORNワーホリに挑戦したことで、自分には多国籍のお客様への接客経験もある、英語も話せる、という自信があったのは大きかったです。エアラインを受けるために、自分が準備してきたこと、英語力を伸ばすための努力に自信を持っていたからこそ話せたし、説得力もあったように感じています。その経験、準備が自信につながったし、その自信が面接官にもきっちり伝わったと思います。
自分が経験した辛かったこと、きつかったことを言葉にすることは難しかったですが、それが面接官に伝わったとき、そこで会話が盛り上がったし、自分の経験と同じ内容を、ほかの受検者でしている人はいませんでした。海外でグローバルな接客経験している人はいない印象でした。自分にとっては有利な点になりました。
ニューヨークでの活動も役立った
航空業界以外では、ニューヨークでやっていた集客やマーケティングの活動について話しました。2ヶ月間で出した成果を自分でもよく分析したし、話したかったことだったので、メインでその話をよくしました。
ニューヨークでの活動は2つで、1つは大型イベント運営、もうひとつはレストランの集客・マーケティングをやっていました。現地のスタッフを巻き込んでポップを作ったり、SNSを使った集客マーケティングなど知識を得ながら担当しました。売上の向上率やその分析の話をすると興味を持たれ、よく深掘りされました。
面接で評価されたのは、自分が主体的に動いて問題を発見した過程・方法や、どう考えて問題を解決したか、またその現状に対して次はどうするのか、何を改善するのかという考え方を実践していた点だと思います。また、周りと意見が食い違ったときの乗り越え方も評価されました。
例えば、みんなで何かを行うときに、それぞれのシフトも違うし、モチベーションも違うため、みんなで共有できるように連絡ノートを作りました。また、自分で現場に出て、現場を見ること、そこで働いている人たちと距離を近づけることで、知らない人がマネジメントしているのではなく、一緒に働く仲間がマネジメントしているということを見せることを工夫しました。
就活を終えて、「やっておけばよかった」と思うこと
数字のデータをもっと取っておくべきでした。たとえば配ったレジュメの枚数だけでなく、実際に働いていた日数や、どのタイミングでセクションがもらえたか、セクションでどれくらい売上に向上したのか等データを取っておくとよかったです。ニューヨークでの活動においても、何日活動に取り組んで、どれくらい売上が上がったのかなど、もっと細かく見ておくべきでした。たとえばレジュメをローカル企業に128枚配ったと具体的な数字を出して言うと、とてもびっくりされるし、なぜそこまで仕事が取れなかったのかなど聞かれもしますが、聞かれるからこそ自分が頑張ったことを話せるし、50枚配った時点でどう戦略を変えたか、100枚配ってからはどう変えたかなどを話せたらもっと強かったのかなと思います。
また、フィードバックもしっかりやっておけばよかったです。自分の客室乗務員になりたいという夢があったからこそ、自分自身へのフィードバックをもっとしっかりしておくべきでした。最終面接の中で、次の改善点、その次の改善点でどうすればよかったのかなどを聞かれました。自分の経験の中だけで満足せず、経験した上でもっと振り返って、こう考えてこういうふうに行動しました、ということが言えたらもっと強かったと感じています。
REBORN projectに向いている人とは
どんな夢を追いかける人にも合うと思うし活かせるポイントがたくさんあると思います。自分の場合は、接客と営業・マーケティングのふたつに大きくわけて就活していましたが、それぞれに合うエピソードを切り取って話していたので、どんな目標にも使えると思います。
周りの就活生は、語学学校での話や寮での話が多かったけど、私は一切語学学校などの話はしませんでした。シェアハウスの話も一度もせず、そのあとのインターンシップや海外で実際に働いた話をメインで語れたのは大きかったと思います。
また内定をいただいた大手電機メーカーでは、交換留学/派遣留学をした人はいませんでした。内定者懇親会で出会った人は、インドで起業してそのあとオーストラリアに行った人などがいて、留学やワーホリという経験と語学力を通して、その先になにかアクションを起こしていないと評価されないのかなという印象を受けました。
休学してREBORN projectに挑戦する不安はなかった
単位も何も気にしなくていい猶予をもらって、自分のしたいことを将来のためにする時間ができたと思いました。将来のための投資、将来を豊かにするために、単位だけに縛られた生活をしなくてよかったというのはありがたかったです。単位を取らないと!と縛られて派遣留学や交換留学をして行動の範囲が狭まるよりかは、1年しっかりと時間を取れたことは自分にとってよかったと思います。
最初の方こそ1年遅れることに不安はありましたが、帰国後、自分と同い年の人は就活においては先輩なのでその話が聞けてラッキーだし、出会う人の幅が増えたと思います。1年遅れてなかったら出会えなかった後輩がたくさんいるし、就活してみれば、同じように休学している人はたくさんいて、自分より2個も3個も上の人にも会いました。大学の中でこんな経験した、という自信にもつながるし、興味を持ってもらえたと思います。企業にも休学について聞かれたこともありましたが、聞かれた方が自分の経験を話せるし、マイナスになることはなかったです。1年遅れる、ではなく、1年多く学べるのは大きいと思います。
渡航前と後で変わった家族からの反応
私が申し込んだ2017年は、REBORNの会社の事務所もなく、ホームページもないし、このプログラムに申し込んだ人が他に2,3人しかいなかったので、安心できるのかとても心配されました。
ですが、両親が代表のヒロさんと話したことで不安がなくなったようです。REBORN projectを勧めるという視点ではなく、私にとって何が良いオプションなのかという視点で具体的に話してくださったことを覚えています。ニュージーランドと迷っていたとき、オーストラリアを含め両方の話を対等にきちんとしてくださりました。また、このプログラムのための準備も相当していたということが両親に伝わり、態度が変わりました。
渡航前の私は、料理もできず、だらしない性格だったので、両親はそのことを心配していましたが、オーストラリア滞在中に家族が遊びにきて、「しっかりしたね、なつみが頑張っている姿を見て自分も頑張ろうと思った」と言ってもらいました。大学を休学して、休学の料金もプログラム料金も両親に払ってもらっていたので、自分としても期待に応えられているかの不安がありましたが、今まで両親から影響を受けてばかりだった自分が、両親に影響を与えることができたという初めての経験ができてとてもうれしかったです。
渡航日は、一番近くの人との時間を大切にするようになったね、と言われるようになりました。渡航前は、やりたいことを全部していて、家にいない時間が多かったのですが、家族との時間が大切だとワーホリで実感したので、意識的に家族の時間を増やすようにしました。また、自分のことだけじゃなく、自分の周りのことも考えられるようになったと言われました。例えば、食器を片付けるときに、自分の分だけでなく家族の分も片付けたり、布団を干すときは家族の分も干すなど、小さいことですが、今までは自分のことでいっぱいいっぱいだったのに、周りのことが見えるようになったと言ってもらいました。
REBORNワーホリを希望している人へメッセージ
世界のたくさんの人に会えるし、今までしたことないことにたくさん挑戦する場があるため、漠然や目標が定まらない人もやりたいことが見つかると思います。私は、はじめはエアライン業界に入るために留学したかったのですが、実際現地では、マーケティングのこともっと勉強したいとも思ったし、日本語の先生を現地でしたいと思って、日本の大学を卒業したら現地の大学に行こうかなと思ってIELTSの勉強を始めるなど、現地でやりたいことに出会えるし、夢は見つかると思います。見つかるまでたくさん挑戦できる場所がREBORN projectです!
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